ソーシャルアクションラボ

2023.08.29

かわいい第1子を、「早く忘れなさい」と言われて

30歳だった2004年。長女が生まれました。転勤族の会社員の夫と結婚して、3年目のことでした。

長女は多発奇形の体で生まれ、産後の生存も危ぶまれる中、大きな手術を乗り越えてくれました。東京女子医大のNICUでの治療がはじまり、私は新宿にアパートを借り毎日病院へ通いました。くだにつながれた小さな体。治療から5か月後、息を引き取りました。

自分としては、かわいい第1子だったけれど、周りからは「早く忘れなさい」「いつまでも亡くなった子のことを言わないで前を向いて」とも言われました。

長女を亡くした後、産休を取る予定だった東京での仕事は続けられませんでした。妊娠8か月まで問題も見つからず順調だと言われていたし、元気に生まれてくるものだと思い、楽しい話しかしてこなかったからです。

娘の死後数日で退職して、夫の暮らす仙台に移ります。2006年に長男が生まれるまで、友達づきあいはほとんどありませんでした。2年間くらい「暗黒」です。ずっと家にいて、「何で娘は亡くなったのか?何が悪かった?」と、思い続けました。だから、元気だったころの友達には、会えなかった。

「お子さんは?」と言われて「いるけど、死んじゃいました」とは言いにくい。「いません」ということも亡くなった娘に悪い。原因は自分のせいだ、と責めることもありました。

当時お世話になった「NPO法人 SIDS家族の会」(SIDS:乳幼児突然死症候群)で、私は「ビフレンダー」(経験者でグリーフケアの研修を受けている人)という立場で、東北エリアを担当しています。

年に1回ミーティングを開き、相談も受けています。「SIDS等で赤ちゃんを亡くされたご家族のための電話相談」も、月に1回程度、担当しています。(続きは8月30日、31日公開予定)

【語り手】砂子啓子。宮城県仙台市で始まった子育て中心の暮らしを、転居した東京で再構築し、5年目に入ります。東日本大震災当時、息子たちは2歳と4歳でした。育児、家事、防災、仕事、地域活動。興味関心事をミックスし、複合的視野を持って生活中です。佐賀県出身。2011年3月、被災地と支援者を結ぶ任意団体「i-くさのねプロジェクト」を立ち上げました。2018年、防災士の資格を取得。特技は、子どものころに始めた剣道で、地域の子どもたちにも教えています。