2023.09.01
No Play No Life! 「子どもの遊び場」から考える、住民自治。
子どもたちが泥んこ遊びなどを自由に楽しめる「羽根木プレーパーク」(東京都世田谷区)は、区立羽根木公園の一角にあります。
ここは、1979年に、住民と区との協働事業として開園した日本初の常設「冒険遊び場」です。地域で暮らすある夫婦の「子どもたちにもっと自由な遊び場を!」という思いから始まった羽根木プレーパークは、今年で開園43年目を迎えました。 場所と資金は区が確保し、現場運営はNPO法人プレーパークせたがやの職員であるプレーワーカーとボランティアの地域住民(=世話人)が担っています。そこで、世話人代表をつとめるのが、荒木直子さん。1児の母です。
アニメーション制作の世界から、子育ての世界へ
荒木さんは石川県能登町出身。都内の大学で映画の撮影技術を学んだ後、チェコへ留学し、立体アニメーション制作を学びました。帰国後はその経験を生かし、アニメーション制作の仕事についていました。
産前は、朝から夜遅くまで働いていました。 「立体アニメーションは基本的に立ち仕事の肉体労働。安定期に入って受けた、人を動かす〝ピクサレーション〟の仕事では、10時間くらいぶっ続けでアニメートしたこともありました」2010年、娘さんが生まれ、夫と二人、東京での子育てがはじまります。「徹夜してなんぼ」のアニメ仕事。しかも、フリーランスでは認可保育園入所も難しいため、育児と仕事の両立は早々に断念しました。
隣近所はみんな顔見知り、という故郷の能登とは違う、都会での初めての育児。夫も映像関係の仕事で忙しく、育児はほぼワンオペ状態。歩き始めた娘を連れて近所の公園に通ってみたものの、特に親しいママ友ができることもなく、「これがあの〝孤育て〟というやつか・・・」と、悶々とした日々を過ごしていたそうです。 そんな時、以前友人から聞いた「変な公園」の話を思い出した荒木さん。「世田谷区の公園にね、変な場所があったの。子どもがたき火してて、手作りみたいな小屋があって、なんていうか・・・〝戦後〟って感じ?」
記憶をたどってネットで調べてみると、どうやらそこは「羽根木プレーパーク」というらしい。しかも、自宅から近い!荒木さんは早速、ベビーカーを押して世田谷線に乗り込みました。最初は、入り方もわからなかった
しかし、初めて羽根木プレーパークを訪れた時、直子さんは動揺のあまり入れずに引き返したそうです。
手作りの遊具などがあちこちに置かれていて、たき火をしている子どもたち。そこにいる大人も、誰がどの子の親かわからず、子どもたちは泥だらけになって野趣的な遊びをしている。
「東京のど真ん中に、なんでこんな場所が!?」
先生も、園舎も、カリキュラムもない
事務局員さんから「小さなお子さんがいるなら、世話人になる前にまずは羽根木プレーパークで遊んでみては?」と勧められ、晴れて羽根木プレーパークに足を踏み入れることに。荒木さんはそこで、「自主ようちえんひろば」と出会います。
「ひろば」は、羽根木プレーパークを拠点に、昭和50年から続いている青空保育の活動団体。親が自分たちの手で運営している「ひろば」には、園長も、先生もいません。
「小学校に上がるまでの限られた時間の中で、子どもたちがやりたいと思うことを、とことんやらせてあげる」 という方針で、親同士が交代で当番に立ち、お互いの子どもを「預け合う」のが自主保育の特徴です。 「自分が保育者として、我が子だけでなく、他の子どもたちと共に過ごすことで、彼・彼女たちと『〇〇ちゃんのママ』ではない関係性を作れることがとても面白いんです。娘も、2、3歳のころは朝から晩まで土ぼこりにまみれて遊び回っていました。絵を描いたり、ダンゴムシを集めたり、工作したり、ひたすら土に穴を掘ったり・・・」「自分が『今やりたい!』と思ったことを、時間を区切らずやり尽くす。子ども同士のケンカも、できるだけ介入せず見守ります。『今日はこんなことがあったよ!』と、その日の報告タイムで預け合いメンバーの母たちと盛り上がったり。とても豊かで贅沢な時間だったと思います」
みんなで作る、遊び場
プレーパーク内には、こんなメッセージが掲げられています。
プレーパークは、一般の公園では禁止されているところもある、たき火、穴掘り、泥遊び、基地づくりなど、子どもたちが「やりたい!」と思ったことを、可能な限り自由にできるために作られた遊び場です。
しかし、こういった自由な遊び環境を守っていく上では、「市民参加が必要不可欠」であると、荒木さんは言います。 「一般的な公園では、怪我が起こったから遊具を撤去する、クレームがあったからボール遊びを禁止する、ということが長年に渡り続き、子どもたちの遊びの自由度がどんどん狭まっています。プレーパークの現場は、常駐プレーワーカーと世話人によって運営されていますが、【運営者=サービスを提供する側、来園者=サービスを提供される側】という関係性では、何か問題が起こった時、プレーパークのような自由な遊び場を守っていくことは難しい。私も元々はいち来園者でしたが、プレーパークは『子どもたちにもっと自由に遊んでほしい』と願う、私のような普通の親が『自分の手でこの遊び場を守ろう』と、綿々と連なって続いてきた場所。『自分が関わろう』と思ってくれる市民が途絶えてしまえば、こういう場所は続けていけません。来園者も運営者も、『みんなでつくってるあそびばなんだ』の意識を共有することが大切だと思います」
「デザイン」を通じて課題を伝える
荒木さんが羽根木プレーパークと出会った直後の2011年3月、東日本大震災が起きました。小さな子を抱えての暮らしをどのようにしたらよいのか、何に気をつけたらよいのか、不安になったと言います。
「子どもたちは土に触れて遊ぶ。当時、『この土の中には、どれくらい放射性物質があるのか?』を知りたいと考える親は少なくありませんでした」 そこから、羽根木プレーパークでは、有志の親たちによる園内土壌の放射能自主測定が始まりました。秋になると、子どもたちが食べる園内の椎の実を採取して毎年継続的な測定も行い、子育ての中の暮らしの目線から、放射能についての勉強会を開いたり、関連する映画上映会を行ったりもしました。2016年、当時、羽根木プレーパークの近くに事務所があった「ぶんぶんフィルムズ」で、代表の鎌仲ひとみ監督が講師となった「原子力防災講座AtoZ」にも参加。その後、受講者が中心となり、鎌仲監督の活動を支援するぶんぶんサポーターズクラブが立ち上がりました。
荒木さんも、運営メンバーとして原子力災害など「複合災害」について考えを深めたり、防災士の資格を取ったり、プレーパークでもお母さんたちと防災イベントなどを行うなどの活動もしてきました。
子どもの遊び場を「窓」に
子どもの遊び場を「窓」にして、日本社会が抱える様々な問題が見えてくる、と言う荒木さん。
「東日本大震災後、自分のこれまでの世界観が反転しました。原発事故をきっかけに、それまで『誰かがなんとかしてくれる』と漠然と思っていた自分の無知さを心底悔やみました。ご近所に鎌仲監督の事務所があったのは僥倖のめぐり合い。自分たちの手で子どもを守るための、原子力防災についても深く学ぶことができました。『遊び場の土を測る活動』から、地域・県を越えて新たな仲間も増えました」目に見えない問題を可視化する
「目に見えない、わかりづらい問題をどうしたら可視化できるのか? 日常につながるように人に伝えられるのか? そんなことを考えながら、チラシやTシャツなどをデザインするようになりました」
現在、荒木さんはプレーパークを軸足に、さまざまなジャンルでデザイナーとして活動を続けています。 「プレーパークは、先人の大人たちが、『本気で遊ぶ』ことで作ってきた場所。時代も人も、社会も変わって、やれることの範囲がどんどん狭まっているように感じています。こんな今だからこそ、『No Play No Life!』の精神で自分も本気で遊びながら、いろんな課題に取り組んでいきたいと思います」エネルギッシュで優しく明るいデザインは、難しい問題もわかりやすく、 間口を広げて参加しやすくしてくれています。
自分の「得意」を活かして、子育てをしながら、地域のこと、社会のこと、 環境のことを学び、考え、時に発信しながら暮らしていく。
直子さんの自然体な生き方に触れ、明るく前向きな気持ちになりました。