ソーシャルアクションラボ

2023.09.06

土砂で埋もれた自宅と田んぼ 米作り再開の背中押した亡き父の姿

 2018年9月に最大震度7を観測し、災害関連死を含めて44人が犠牲となった北海道胆振(いぶり)東部地震は6日、発生から5年となった。大規模な土砂災害があった厚真(あつま)町で家族3人を失った農業の山本隆司さん(58)は来春から、被災から復旧した田んぼで、念願の米作りを再開する。一粒一粒に情熱を傾けた亡き父の背中を追って――。

 こうべを垂れた稲穂が風になびき、陽光を浴びて黄金色に輝いていた。しかし田園風景の先に見えるのは、深緑の斜面に一部むき出しになった茶色の山肌。今も「あの日」の爪痕が残る。

 厚真町中心部から北東に車で約15分。山本さんが住む幌内(ほろない)地区だ。「ようやく一歩前に踏み出せるかな。田んぼがよみがえったことは家族もきっと喜んでいると思う」。山本さんは照れ笑いを浮かべた。

 18年9月6日午前3時過ぎ。自宅2階で就寝中だった山本さんは突き上げるような強い揺れで目を覚ました。その直後、「ドドド」という地響きとともに土砂とがれきが部屋に流れ込み、身動きがとれなくなった。かろうじて動かせる左手で土砂を必死に押し返そうとしたが、その後、しばらく気を失った。

 気づくと狭い視界の中に夜空が見えた。「生きていたんだ」。同時に腕と背中に激痛が走った。声を振り絞って1階で寝ていた家族3人の名前を何度も叫んだが、返事はなかった。

 意識がもうろうとする中、外に出た。暗闇にもやが立ちこめる中、がれきをかき分けて地区の集会所に避難。夜が明けると、自宅付近の光景に言葉を失った。裏山が崩れ、自宅が100メートルほど土砂で流され、田んぼは茶色い土砂に埋め尽くされていた。

 山本さんは苫小牧市内の病院に搬送された。左腕や肋骨(ろっこつ)にひびが入る重傷だった。2日後の8日、病床で母リツ子さん(当時77歳)、妹のひろみさん(同50歳)が遺体で見つかったことを知らされた。町内で最後の行方不明者だった父の辰幸さん(同77歳)も10日未明に発見された。失意の中にありながら、「家族そろって見送ることができる」という捜索への感謝と、ほっとした思いも交錯した。

 しばらく農業を続けるかどうか迷っていたが、辰幸さんの友人らが背中を押してくれた。翌年から、同じ地区の親類が無償提供してくれた農地でカボチャと少しの米を作り続けてきた。山本さんを奮い立たせたのは、米作りに懸けた辰幸さんの姿だった。

 山本さんは札幌市の大学を卒業後、会社勤めを経て27歳で農家を継ぐために帰郷。家族4人で水田13ヘクタールとカボチャ畑7ヘクタールを耕した。辰幸さんは「頑固一徹で職人かたぎ」。00年に皇居で行われた「新嘗祭(にいなめさい)」に献上される新米に選ばれるなど、地元でも米作りの名人として知られていた。

 辰幸さんは林業にも従事し、「道内でも5本の指に入るチェーンソーの使い手」(山本さん)だったという。朝は午前4時から農作業を始め、山仕事を午後10時まで続ける。間近で見ていた山本さんにとって辰幸さんは近寄りがたく、大きな存在だった。

 そんな辰幸さんも70歳を過ぎた頃から体力の衰えが見え、自宅で休むことが多くなった。地震前日も午後8時半に山本さんが帰宅すると、すでに辰幸さんは部屋でくつろいでいた。背中が急に小さく見えた。それが父を見た最後だった。

 「あれだけ強かった父が急にいなくなって……。でも、田んぼを復活させるのは、やはり父が大事にしてきたものだから」。今は自宅跡近くに町が整備した住宅で暮らし、米作りの再開に備えている。

 6日午前6時ごろ、山本さんは自宅跡で静かに手を合わせた。「5年は長かったが、きょうが節目だとは思わない。春に稲を植えて、田んぼの景色を見た時に3人を思い出すことが本当の節目だと思っている」

 復旧の整備がほぼ終わった田んぼは今、来春の作付けを待つ。「来年の今ごろ、収穫した米をまず3人に食べてもらいたい。父に『まだまだ』と怒られるかもしれないけれど」。視線の先に、黄金色に輝く稲穂で埋め尽くされた田んぼを見据えている。【真貝恒平】

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