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2023.09.07

「兄ちゃん…」色あせぬ記憶に涙あふれ 北海道胆振東部地震5年

5年の月日が流れても、大粒の涙があふれて止まらなかった。「家族みんなで暮らしたあの頃に戻りたい」。2018年9月に最大震度7を観測し、44人が犠牲となった北海道胆振東部地震。兄の中田朗さん(当時60歳)を亡くした小川喜代子さん(61)は初めて、兄が暮らした実家跡を地震が発生した午前3時7分に訪れた。姉の中田泰子さん(64)と二人で「兄ちゃん」の冥福を祈った。【山田豊】 遺族姉妹「ゆっくり休んで」 6日午前3時前。中田さんと小川さんは、朗さんが暮らした厚真町吉野地区の自宅跡を訪れた。二人も高校を卒業する頃まで、一緒に暮らした場所だ。 午前3時を過ぎた頃、花を手向け、ろうそくに火を付けた。目を閉じ、優しく手を合わせる。地震のあった午前3時7分を過ぎても手を合わせ続けた。その間、小川さんは涙があふれ、おえつしそうにもなった。 「いつかこの時間に来なければ」と、小川さんは思っていた。それでも、あの日を思い出しては苦しむ日々が続き、向き合えずにいた。これまでも発生時間に実家跡を訪れてきた姉の中田さんに誘われるように5年を迎えた日に訪れたが、「やっぱりこうなるよね」と次々に兄との記憶がよみがえり、泣きじゃくってしまった。 中田さん一家は8人きょうだいの大家族。次女の小川さんは、長男の朗さんを「厳しくも優しい兄だった」と振り返る。生前、トラック運転手や兼業農家として働いていた朗さんは、家族などでジンギスカンを食べるときも、周りに肉を分け与え、「自分はもやしでいいよ」と笑うような優しさを持っていた。 小川さんが生前の朗さんと最後に会ったのは、18年7月だった。朗さんの還暦祝いで、苫小牧市内の飲食店にきょうだいが集まった。長男としての威厳を保とうとしていたのか、少し近寄りがたい雰囲気をまとった時期もあったが、この時は妹らに優しく声を掛けて回り、きょうだい間で「すごく穏やかになったね」と話題になった。朗さんは「また来年もみんなで集まろう」と笑顔で別れた。来年も再来年も、会えると思っていた。 18年9月6日。多くの人が寝静まった午前3時過ぎに地震は発生した。中田さんや小川さんは朗さんと連絡が取れなかったが「生きている」と信じて厚真町に向かった。しかし、笑顔で別れた兄は帰らぬ人になっていた。 地震からの5年間、気持ちの整理ができない日々が続いた。今も「完全に」整理が出来ているとは言えない。中田さんは今年、朗さんに「ゆっくり休んでね」と優しく語りかけることができたが、小川さんは「いつまでたっても、癒えないかもしれない」と痛切な思いを語った。二人は「もうこの先、どこでも災害なんて起きないでほしい」とつぶやいた。 誓いの灯「忘れない」 厚真で追悼、町職員ら50人 復興への道、歩み続ける 6日未明、大きな被害を受けた厚真町役場前に約50人の町職員が集まった。職員たちは、町内の犠牲者と同じ37個の紙コップに入ったろうそくに灯をともした。 紙コップに記されていたのは「5年の月日が流れてもあの時のことを忘れません」「地震の教訓を後世に語り継ぎます」などのメッセージ。地震発生時刻の午前3時7分、職員が円形に配置されたろうそくをともした紙コップを囲み、約1分間、黙とうして犠牲者を悼んだ。 町役場に近い「つたえり公園」の慰霊碑前でも正午に合わせて、宮坂尚市朗町長や町の管理職ら25人が黙とうした。宮坂町長は「この5年の歩みを亡くなった方たちにしっかりと伝えた。天国から見守っていただいていると思う。これからも心のケアや災害復旧、復興への道を町民と一丸となって歩み続けることを誓った」と語った。 厚真町と同様に被害の大きかったむかわ町でも竹中喜之町長が防災行政無線を使ってメッセージを放送した。また、胆振管内の自治体は、この日を「胆振防災教育デー」と位置づけており、ほとんどの小中学校で避難訓練や集会での講話など防災教育に取り組んだ。【真貝恒平、平山公崇】

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