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2023.09.11

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば~民衆の苦悩に光を射した僧・行基の利他行とは~連載48回 緒方英樹

洪水と干ばつ

 古来より、日本という国は洪水と干ばつを繰り返してきた歴史があります。

 そして現在、台風や集中豪雨、それに伴う土砂災害・洪水など水害が日本列島あらゆる場所で頻発していますが、長く雨の降らない干ばつ(渇水)災害も毎年のように起きています。さらに、地球温暖化による干ばつリスクの高まりが予想され、特定の地点で集中豪雨が発生することによって、その周辺の地点では反対に雨の量が減るという現象もみられます。

 奈良時代、この洪水と干ばつに対処して大土木事業を施したのは、僧侶である行基(668~749)です。

 千年を越えて今に残る行基のそれは、狭山池(大阪府)、久米田池(大阪府)、昆陽(こや)池(兵庫県)であり、それぞれ順に、西除川、牛滝川、天神川の上流で取水して水を導き、平地に堤を築いて貯めるという大規模ダム建設でした。

長い間、地域の田畑を潤おすとともに洪水を防いできた狭山池
長い間、地域の田畑を潤おすとともに洪水を防いできた狭山池

飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

 しかし、なぜ僧侶が土木事業をおこなったのでしょうか。行基は知っていたのか、地域を放浪して学んだのか。水のない土地はとめどない貧困を生み続けることを。

 「あをによし、奈良の都は、咲く花の、匂うがごとく」と万葉集に詠われた奈良時代、都は藤原宮から平城京へと移って華やかな貴族文化が花開いていました。一方、農民には過酷な税が課せられました。租(そ)〔米〕・庸(よう)〔労役または布〕・調(ちょう)〔布または産物〕という形で国に納める厳しい税負担、洪水や干ばつによる不作から逃げ出す民もあるほどでした。

世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば 『万葉集』巻五-八九三
 
 奈良時代初期の歌人・山上憶良(やまのうえ・のおくら)(660~733)による「貧窮問答歌」では、「土地と人民は王の支配に服属する」という律令体制下、公民の貧窮ぶりと苛酷な税の取り立ての様子を写実的に詠(うた)っています。貧乏をリアリズムで描いた万葉歌人の歌からは、都が移るたびに駆り出される民衆の苦痛と不安が見て取れます。

 そのような時代、庇護されていた寺院を出て民衆の中に入っていった僧侶たちがいました。人馬が流されて困っていた宇治川に宇治橋を架けたとされる奈良元興寺(がんごうじ)の僧・道登(どうとう)、法相宗の開祖で『西遊記』のモデルとしても知られる玄奘三蔵(げんじょう・さんぞう)に師事して法相教学を学んだ僧・道昭(どうしょう)は、道登が架けた宇治橋を架け直したと『続日本紀』にあります。この道昭について『続日本記』の道昭伝に、「後において、天下を周遊して、路傍に井戸を穿ち、諸の港に船を設け、橋を造る」とあります。この道昭の弟子となっていたのが若き僧・行基でした。

近鉄奈良駅前に東大寺大仏殿の方を向いて立つ行基菩薩像
近鉄奈良駅前に東大寺大仏殿の方を向いて立つ行基菩薩像

民人の幸せに尽くす「利他(りた)」の心

 行基の出自をたどると、父・高志(こしの)才(さい)智(ち)は、百済から渡来した学者・王仁(わに)を祖とする百済系渡来氏族であるとされます(王仁に関する記述が『古事記』『日本書紀』『続日本紀』にある)。

 行基の母・蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)も百済からの渡来人系で、行基の育った環境には多様な大陸文化を身につけた渡来系の系譜があったことも考えられます。その母の死後、行基は、奈良の飛鳥寺で出家し、やがて師と仰いだ道昭から池や溝を開発する新しい技術を学んだのかもしれません。そして、道昭の示した「民人たちのため」の行いは、行基を「衆生済度(しゅじょうさいど)」すなわち、この世で迷っている衆生を苦しみから救い出す道筋へ導いたことでしょう。

 師・道昭を日本初の火葬で見送った行基は、僧の位を捨て、国の援助もなしに、橋や港、道路や用水路などを次々と造っていきます。堤防築造や改修といった大きな工事では自ら現場の先頭に立ちます。そうした土木事業は、行基にとって他者の幸福に尽くす「利他」の行いであったのですが、このような僧侶の姿を民衆はそれまで誰も見たことがありません。農民だけでなく、豪族や商人、地方の役人でさえ日増しに深く慕い、行基の周りには続々と信者が集まっていきました。行基集団の発端です。

 広く民衆を救うという仏教本来の姿を取り戻すそうとした行基の出現は、民衆にとって垂れ込めた暗雲から射した一筋の光明であったことでしょう。

行基集団の大土木事業に見る“土木の原点”

 『行基年譜』の「天平十三年記」に見る行基の活動は、約30年間に橋6、道1、池15、溝6、船着き場2、樋3、宿泊所9、院49をつくり、その他多くの道や橋を直し、その活動は全国に及んだとあります。ここで言う宿泊所とは、都(みやこ)に税物を納めに行く民衆のために建てた布施屋(ふせや)すなわち簡易宿泊所のことです。

 49カ所の院は、寺院というより行基集団が大きな溝池を築き、開発するため現場近くにつくった道場兼居住場所であったと思われます。昆陽池や狭山池などの大工事は何年もかかる土木事業でしたので、行基集団は現地の地形や地質調査、討議を経てチャレンジを繰り返し、実務経験を重ねながら技術を高め、蓄積していったことでしょう。

 行基は、土木や建設の工事という大きな「利他行」によって人々を導き、民衆は仏のように誠実な気持ちで生きたいと願って大規模な地域開発を成し遂げていったのです

 民衆のために尽くす事業は、人々の命と暮らしを守り、整える「福祉」に通じるという意味において、土木の原点とも言えるでしょう。

緒方英樹(おがた・ひでき)土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ 土木史委員会副委員長。著書「大地を拓く」(理工図書)で2022年度土木学会出版文化賞を受賞