2023.09.30
手話で伝える 京大院生の挑戦「ろう者への理解広げたい」
「ろう者の院生がいます。ノック音が聞こえません。代わりに照明を点滅させてください」
京都大(京都市)にある一室のドアにはこんな張り紙があった。生まれつき耳が聞こえない大学院生、松尾香奈さん(25)が在籍する。自席には「声で呼ばない・肩をたたく」と書いてある。
手話通訳を介して、「ろう者とのコミュニケーションを多くの人に知ってほしいと考えています」と教えてくれた。
学校や家庭での会話についていけず
松尾さんは神奈川県出身で、聴者の両親、弟に囲まれて育った。家族の中で耳が聞こえないのは松尾さんだけ。相手の唇の動きを読み取り声を出す「口話」を学び、コミュニケーションを取った。だが、聴者同士の会話をすべては理解できず、「雰囲気を感じ取るぐらい」だったという。
地元の小中学校に通ったが、授業はあまり理解できず、教科書を読んで自習した。家でも学校でも口数は少なく寡黙だった。「周囲の会話についていけず面白くありませんでした」と振り返る。
手話との出合い
幼稚園の時、たまたま親と手を使ってコミュニケーションを取っている子どもを見て手話の存在を知った。「羨ましい。私も覚えたい」と思った。小学生時代、近所に手話を使う親子がいると知り、放課後に通うようになった。
高齢のろう者の男性と聴者の娘がやりとりするのを見て、「日本手話」を学んだ。学校での出来事を伝えたり、これまで胸の奥にしまっていた感情を表現できたりするようになった。「授業が分からなかったとか、友達とのエピソードとか、自分の経験を誰かと共有することができてうれしかった」
高校卒業後、東京の大正大文学部に入学した。手話通訳や、講義内容などを要約し筆記してくれる「ノートテーク」を利用しながら学んだ。聞こえないことに、心ない言葉を投げつけられたこともあったが、ろう者を取り巻く社会に関心を深めるようになった。
学会での手話通訳求め
2021年に京大大学院へ進学。ろう者への理解を広げようと、人類学を専門に学ぶことにした。
学会にも積極的に参加している。22年6月に参加した時は、手話通訳がなく音声認識アプリを使った。だが、誤変換が多く内容はほとんど理解できなかった。
翌年23年の学会では、自らが発表する立場になった。手話通訳を依頼したが、最初は、難色を示された。学術的な内容に対応できる手話通訳者は少なく、費用は高額になるからだ。
遠隔地からのオンライン通訳や、松尾さんの発表に限った通訳が検討されたが、「他の参加者と同じように情報を得る権利を与えてほしい」と訴えた。交渉の末、事務局は松尾さんの意思を尊重し、会場に手話通訳者を配置してくれた。
手話で臨んだ学会発表
学会は6月3、4日に県立広島大学で開かれた。登壇した松尾さんは「戦略的に排除される『ろう者』たち」と題して、ろう者が聴者との不和を避け、問題提起を断念してしまう実態を紹介した。
例えば、大学で手話サークルに入っていた男子学生は聴者同士の会話や手話歌についていけず困っていた。だが、「手話で話してほしい」「歌が聞こえないから曲に合わせられない」などと伝えることはできず、黙ってサークルをやめてしまった。
飲食店やコンビニエンスストアで筆談やジェスチャーを使うことをためらい、店員とのやりとりを諦めてしまう事例も取り上げた。「聴者の生活圏にはろう者もいるのだという当たり前のことを認識してもらいたいです」と訴える。
博士課程に進学「理解者増やしたい」
今春から博士課程に進学し、本格的に研究者の道に進む。手話通訳の手配など聴者の学生たちと比べ時間を取られることに焦りを感じることもある。だが、ろう者、聴者にかかわらず交流を大切にしている。
「ろうのことを知っている人、分かってくれる人が少しずつ増えていけばうれしい。ろう者の子どもたちに生きやすい社会をつくっていきたいです」
松尾さんの挑戦は続く。
【宮川佐知子】
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