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2023.10.05

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ あっぱれ!戦国商人の土木~角倉了以・素庵父子の大いなるチャレンジ~連載49回 緒方英樹

古代より氾濫の多い桂川、保津川と大堰川

  2013年9月に上陸した台風18号による大雨、2018年7月の記録的大雨による鴨川や桂川の氾濫、そうした報道を覚えておられる方も多いと思います。桂川が流れる嵐山渡月橋付近は、風光明媚な観光スポットとして有名ですが、大雨が降ると濁流渦巻く暴れ川に豹変しました。丹波亀岡から京都の名勝嵐山までスリル満点の舟下りを楽しむ保津川(ほづがわ)下りは、四季を通じて変化に富んだ景観から世界的に知られています。

 古来、丹波山地の大悲山(だいひざん)付近に源を発する桂川は、暴れ川として知られていました。その桂川は、流域によってなんども名前が変わります。嵐山から上流の保津峡の間は保津川と呼ばれ、京都府亀岡盆地から上流は大堰川(おおいがわ)と呼ばれます。渡来人の秦氏の祖先が、桂川をせき止める灌漑用の葛野大堰を築いたためとも伝わります。

 時代を経て江戸時代の初め、この大堰川を開削したのが、戦国の商人・角倉了以(すみのくら・りょうい)とその子・素庵(そあん)です。

 花の山 二町のぼれば 大悲閣

 松尾芭蕉の句です。大悲閣千光寺(だいひかく・せんこうじ)は、京都市西京区に位置する臨済宗のお寺です。当時、満開の桜の山を登ると見えてきたであろう千光寺。

 京都は嵐山のふもと、大堰川にかかる渡月橋を渡り、川上へ300メートルほど行った石段を登ると大悲閣。角倉了以が大堰川開削工事の犠牲者を弔うために建立しました。千手観音の大慈大悲にあやかって名づけ、了以はここで晩年を過ごしました。

 その観音の脇壇に、了以の木像は置かれていました。死の目前に自ら刻ませたというその像、生半可な物見はのみ込まれてしまいそうな形相です。

 カッと見開いた眼。石割斧(おの)を持つ五体に満ちた気骨。への字に結んだ唇。戦国時代、豪傑は武将だけではなかったのです。

戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の商人・角倉了以の木像=京都府京都市西京区・大悲閣千光寺所蔵
戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の商人・角倉了以の木像=京都府京都市西京区・大悲閣千光寺所蔵

江戸幕府に代わって大土木事業を行った民間活力の祖

 了以は、信長、秀吉、家康の時代を生きました。徳川家康によってやがて天下の舞台は京から江戸に移ると、了以の危機感は募ります。願いは、京都の復権です。そのためになら、私財を投じることもいとわなかったようです。家康が江戸幕府を開くと、了以は、家康に大堰川開削を願い出ます。

 工事着工の前々年、了以は和気川(わけがわ=現在の岡山県・吉井川)を旅した折、思わぬ天啓を得ます。水量が少なく、さほど広くない川を舟が上下して荷を運んでいました。それが船底の平らな木造船、高瀬舟(たかせふね)でした。

「これだ」。了以は、閃(ひらめ)きました。郷里・嵯峨嵐山を流れる大堰川(保津川)に舟を通わせれば、上流の丹波から京へ材木や米を運ぶことができる、と。しかし、大堰川は舟どころか筏も通さない激流に、巨石がごろごろする難所でした。

 了以は、長男の素庵を幕府に使わして大堰川開削と通船を申し出ます。幕府は、莫大な費用のかかる土木事業に民間活力導入を決定します。この朱印状許可には、家康の恩寵(おんちょう)を受けていた素庵の存在が大きかったようです。その頃、素庵は、本阿弥光悦と嵯峨本を出版するなど一流文化人としても活躍していました。

 工事は、激流にそそり立つ岩石を爆薬で砕き、落差があるところは上流の川床を掘って川幅を整え、滝は上流から掘り下げて平らにしました。了以は、現場の第一線で指揮を執ります。みずから石割斧を振るって先頭に立ちました。難工事は半年で完成。驚いた家康が、富士川の疎通を命じると、これも半年で仕上げてしまったということです。

 でも、こうした土木工法はどこから来たのでしょうか。海外を往き来した角倉一族に専門技術の伝来や蓄積があったとしても不思議はないでしょう。

 「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である」

 森鴎外『高瀬舟』の冒頭です。

 了以が、高瀬川の開削に着手したのは、大悲閣千光寺を嵐山に建立した58歳の時でした。京都を蘇生させるには商業の中心・大坂との結びつきを強める必要がありました。そのために鴨川の流れを淀川に合流させ、モノの流れを円滑にしなくてはならないと了以は考えました。そこで、了以とその子・素庵は、京都二条木屋町を起点に、鴨川を取水して、伏見まで約10キロの運河を3年がかりで築きました。

 その高瀬川を舟底が平たく、舷(ふなべり)の高い高瀬舟が往く。それを想定して、川幅は舟が通れば水位が上がることを想定して狭くしました。大堰川の時と違って、市街地や農地を流れるため、土地の収用と賠償にも責任を取り、災害時の備えも考慮しなくてはなりません。

 洪水の時、あふれた水を鴨川に流し、水域を調整するための悪水抜溝(おすいばっこう)を無数に設けました。了以の土木技術はさらに進化していたのです。

江戸時代初期の1611年(慶長16)に、角倉了以・素庵父子で工事に着工し3年後の1614年(慶長19)に竣工した高瀬川。史跡「一之船入」入口の北側に復元・設置された高瀬舟
江戸時代初期の1611年(慶長16)に、角倉了以・素庵父子で工事に着工し3年後の1614年(慶長19)に竣工した高瀬川。史跡「一之船入」入口の北側に復元・設置された高瀬舟

 「瑞泉寺縁起」という絵巻に見る僧衣で工事を指揮する了以の姿は、その昔、衆人を導いて土木工事を行った僧・行基(ぎょうき)(ぎょうき)を彷彿とさせます。

 了以の死後、素庵は高瀬川開削を完成させ、素庵が亡くなった3年後、鎖国令が出され、朱印船貿易も幕を閉じました。

緒方英樹(おがた・ひでき)土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ 土木史委員会副委員長。著書「大地を拓く」(理工図書)で2022年度土木学会出版文化賞を受賞