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2023.10.11

家族3人を失った観光バス運転手 一言のアナウンスに込めた思い

 車窓越しに緑の芝生が広がり、その先に海原が見える。被災の記憶を伝える「大島町メモリアル公園」沿いの坂道を下る観光バスで、運転手の里見直規さん(58)の短いアナウンスが響いた。「2013年に大きな土砂災害があった場所です」

 マニュアルにはない車内放送だ。乗客には暗い気持ちにならずに島の旅を楽しんでほしいと考え、これ以上は言わないと決めている。

 39人が犠牲となった13年の東京都大島町(伊豆大島)の土石流災害から16日で10年。島の復興は進み、被害が大きかった集落跡は公園として整備されたが、家族や友人を奪われた人たちの悲しみは癒えることがない。

 たった一言に込めるのは「島でひどい災害が起き、人生がそこで終わってしまった人がいることを忘れないでほしい」との思いだ。自身は10年前の土石流で、島の西部で暮らしていた母の大石静(しず)の江(え)さん(当時74歳)、姉の市村初美さん(同53歳)、その夫の君和さん(同61歳)の3人を亡くした。

「家がなくなっている」

 発災前日の13年10月15日夜。里見さんは島の北部にある自宅で床に就いた。台風26号が接近し、家の前の道は豪雨で小さな川のようになっていた。この時は、それまでに経験した台風と大きな違いは感じなかった。

 翌朝起きると自宅が停電していたが、他に大きな被害はなかった。元々仕事が休みだったため、家でくつろいでいた時、知人から電話があった。「初美さんの家がなくなっている」。すぐに約4キロ離れた姉夫婦と母が住む高台へ車を走らせた。土砂や流木に阻まれ、途中で降りて歩いた。

 姉の家は土台ごと土砂に流されており、確認できたのは玄関ポーチの跡だけ。隣り合っていた母の家は横倒しになっていた。土砂に埋まった車のクラクションが周囲に響き続けていた。

 里見さんが姉の家の跡から海側に向かって下ると、アルバムや写真、ビデオカメラなど姉夫婦の持ち物が点々と落ちていた。思い出の品を拾いながら進んだ先で、姉の遺体が見つかった。「歯を食いしばり、痛そうな悔しそうな顔をしていました」

安全なはずの高台で

 里見さんは島内の高校を卒業後、江東区の板金工場に就職。20歳でUターンし、運送会社などを経て、バスの運転手になった。

 姉夫婦は、里見さんの娘と息子を自分の子のようにかわいがってくれた。友人からも頼られ、あずまややビールサーバーが備えられた家にはいつも誰かが遊びに訪れていた。

 姉夫婦が島の高台に居を構えていたのには理由があった。義兄は小学生だった1958年、島を襲った狩野川(かのがわ)台風を経験し、低地の沢沿いにあった自宅が全壊した。それから防災を意識し「自分は安全な山の方に家を建てる」と、高い場所を選んで住んだ。だが、被害を免れることはできなかった。

 母は心配性で、里見さんを見掛けるたび「直規、ちゃんとやってっか?」と声を掛けてくれた。最後に会ったのは亡くなる1週間ほど前。子どもたちが通う小学校の運動会だった。どんな言葉を交わしたのかも覚えていない。いつもと変わらない、その先も続くと思っていた日常だった。

 町の復興事業はほぼ完了し、大災害の痕跡は見えづらくなった。里見さんは10年間を振り返り、言葉を探しながらこう語った。

 「なんて言うんだろう……。急に3人がいなくなってから、誰かが亡くなったと聞いてもあまり悲しく感じなくなってしまった。そんな自分が悲しい」【一宮俊介】

伊豆大島土石流災害

 2013年10月15日から16日にかけ、東京都大島町(伊豆大島)は台風26号の接近に伴って24時間降水量が824ミリに達する記録的な大雨に見舞われ、16日未明に島内各地で土石流が発生。島のほぼ中心に位置する三原山(みはらやま)から西側の元町地区で住宅が流されるなど大きな被害が出た。36人が死亡し、3人が行方不明に。建物被害は半壊以上が214棟に上った。

 町の第三者委員会は16年3月に「事前の防災対策で想定されていた災害は火山や津波に偏っていた」などと問題点を指摘した。

 町は被災した一帯を「大島町メモリアル公園」として整備し、21年6月にオープン。14年に策定した排水工事などの復興計画は23年度で完了する見通し。22年の来島者数は約17万人で、新型コロナウイルス禍の前から3割程度減っており、来島者数の回復が課題となっている。

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