ソーシャルアクションラボ

2024.01.11

東北から自らの体験重ね 避難所生活の心得発信 募金呼び掛け

 元日に襲った能登半島地震は、2011年の東日本大震災で被災した人たちの心にも強い衝撃を与えた。当時に引き戻されるような息苦しさ、経験したからこそ分かる被災者の痛み。宮城県石巻市雄勝町で被災し、津波で母と祖母を亡くした佐藤麻紀さん(52)はニュースに心を痛めつつ、SNS(ネット交流サービス)で情報発信するなどいち早く動いた。自分ができることをしよう――。

 麻紀さんは仙台のライブハウスを中心に夫婦デュオ「THE TIPS(ザ・ティップス)」としてバンド活動を続けている。8日、雄勝町の「道の駅 硯上(けんじょう)の里おがつ」で新春無料ライブがあった。アメリカンポップスに昭和歌謡。「いつもどおり」のパワフルな歌声を響かせた。ダンスミュージックでは踊り出し、オリジナルのバラード曲では涙する観客も。歌の間には、麻紀さんが夫一昭さん(60)と息の合った雄勝弁トークで沸かせ、「よかったら募金にご協力を」と北陸の被災地への支援を呼びかけた。

 夫婦は震災後、音楽活動を一時中断した。再開したのは、仮設住宅で声を押し殺し暮らす被災者に「バンドのせいにして思い切り泣き笑いしてもらえたら」との思いからだ。この日も特別なことはせず、「自分たちが泣いちゃわないように」と念じながら演奏した。

 地元出身の麻紀さんは13年前、町内のスーパーで勤務中に地震に遭った。津波が来ると直感し、子供らのいる小学校へ行って高台避難を呼びかけた。2人の子と町外にいた一昭さんは無事だったが、自宅は津波で全壊。町内の病院に入院する祖母と、助けにいった母が津波で亡くなった。

 学校の体育館など避難先を転々としながら家族を捜す日々。夜も眠れず、時間感覚も失われたが、場面、場面は鮮明に覚えている。元日の地震はその記憶を呼び起こした。麻紀さんはフェイスブックで高台避難を呼びかけ、数日後には避難所で必要な物資とその理由をリストにして挙げた。つながる防災関係者らの間で一気にシェアされた。

 ・歯ブラシ、歯磨き粉→歯磨きできなくて人間らしい生活を失ったと感じた

 ・防寒着→家族を捜す、薬や食糧をもらうために外に並ぶ必要があった

 ・保湿クリーム→入浴できない状態が続くと指先も頰もひび割れてくる

 強調したのは「正しい情報」の大切さだ。それに伝わりやすさも。「被災するとショックで難しい言葉が理解できなくなる。分かりやすく静かに教えていただけると助かります」と麻紀さん。リストは被災者、支援者双方に伝わるよう意識して作成したという。

 麻紀さん自身、能登半島地震のニュースに吸い込まれるように見入り「ストンと当時(の記憶の中)に落ち、これ以上思い出せば身動きがとれなくなると感じた」と話す。動揺する宮城の被災者同士、心寄せ合うことで少し落ち着ければ。そして、力になりたい思いを募金に託し、わずかでも被災地に届けられたら。そんな願いを込めてライブを予定通り実施した。演奏後、募金箱には2万5967円入っていた。

 母や祖母を突然失った痛みは13年近くたっても変わらない。「さみしくてさみしくて心に穴は開いたままだけど、今は胸の中で一緒に生きている。相談したり話しかけたり、そういうふうにして支えられ、なんとか生きてこられた気がします」。麻紀さんはそう言い、一人でも多くの命が守られることを祈り続けている。【百武信幸】

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