2024.01.12
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 地震学者の妻 トネ・ミルン ~水への願い~ 連載52回 緒方英樹
地震と津波
内閣府・防災情報のページに、「津波は、大量の海水が巨大な塊となって押し寄せる」とあります。海岸近くでもオリンピックの短距離選手並の速さで迫ってくるので、普通の人が走って逃げ切ることは難しいことは、東日本大震災、そして今年正月元旦に発生した能登半島地震でも震撼させられました。
海底の下で大きな地震が発生すると、プレートの運動によって海底が持ち上がり、それに伴って海面も変動し、大きな波となって広がります。近年思いもよらないところで多くの災害が発生していますが、私たちをたえず不安に陥れている地震は、津波をはじめ、建物倒壊、火災の発生、土砂崩れ、液状化現象などの被害を及ぼします。
この地震大国・日本で、地震学の基礎を確立したのは、明治9年、明治政府の招へいで英国から来日したジョン・ミルンでした。
イギリスの鉱山技師で地震学者のジョン・ミルン
横浜地震を契機に地震学会を創設
イギリスの西海岸リバプール生まれのジョン・ミルンは、鉱山・地質学の教師として来日、工部大学校や東京帝国大学で教鞭をとりました。しかし、ミルンが世界的な名声を現したのは専攻外の地震学においてでした。
「朝食に地震、昼食に地震、夕食に地震、睡眠時に地震」。当時、日本の近代化のために来日した外国人たちを憂うつにさせたのは地震だったのです。
日本に世界初の地震学会を創設した契機は、明治13年の横浜地震でした。ミルンはすぐに被災地横浜に赴き、日本在住の外国人研究者や工部卿・山尾庸三ら日本政府の要人たちに呼びかけて地震に関する会合を開きます。日本を地震研究のメッカにした起源でした。
そして、ミルンは明治 24(1891)年 10月28日に発生した地震を東京の帝国大学構内の官舎で体感しました。濃尾地震でした。ミルンは官舎内に地震観測室を設置しており、ベッドから跳ね起きたミルンは機器の動きを観測したということです。
濃尾地震の調査には日本人技術者を始め、当時来日していたお雇い外国人W・K・バルトン、J・コンドルらも被災地に出向いています。ミルンは井上勝鉄道庁長官、日本の地震学者・地球科学者で日本における地震学の創始者のひとりである大森房吉と同じ列車で29日夜に新橋を出発しました。
濃尾大震災西春日井郡小田井村堤防大破壊ノ図
(土木学会附属土木図書館 デジタルアーカイブス 土木貴重写真コレクションより)
地震学者の妻、「水への願い」と出会い
日本地震学の父にして、西欧地震学の祖とも言われるイギリス人・ジョン・ミルンの妻の名は、旧姓を堀川とねといいます。
ミルンの東京滞在時は、日本語の文献の翻訳、日本の歴史の調査などで、ミルンの地震学研究に助力したトネ・ミルン
万延元年(1860)年、函館の願乗寺に生まれました。その頃、貿易港となっていた函館の街には、条約が結ばれる前から居留する外国人の姿も見られ、安政4年には函館に星形の西洋式城郭・五稜郭の建設が始まりました。そんな開かれた港町で、とねは、生まれ育ちます。
とねの父・堀川乗経(じょうきょう)は、青森県下北の川内村にある願乗寺の次男でしたが、その土木事業による功績は、現在の函館にとって重要な意味を持っています。17歳で蝦夷地と呼ばれていた北海道に渡り、のちに小樽と函館に西本願寺派の別院を創設します。そして安政6年、但馬や北陸の農民およそ300人を開拓民として清川村に入植・開墾させた乗経のもう一つの大きな事業が願乗寺川開削でした。
この開削は函館を縦断する亀田川の流れを二分して、函館市中に浄水として取り入れる工事でした。その目的は、亀田川流域の水害対策と、人口増加にもかかわらず良水に恵まれないでいる住民の悩みを取り除くことにありました。そして、五稜郭築造の道づくりで知られる松川弁之助らの協力も得て、万延元年11月15日、とねの生まれたその日に、工事は竣工しました。とねという命名には、利根川の水のように豊かに育ってほしいという父の願いが込められていたのです。
函館という当時開放的で一歩進んだ街で明治時代を迎えた堀川とねは、ひとり津軽海峡を渡り東京に出ます。北海道の開拓次官・黒田清隆と開拓顧問ケプロンにより開設されたばかりの開拓使仮学校女学校で英語を学ぶためでした。新たな人材育成は女子教育にも開かれ、12歳のとねは、みずからの生きる道を英学に求めたのでした。
そして、17歳の時、最大の理解者だった父を突然に失います。だが、その夏の出会いも唐突にやってきました。
とねの前に現れたのは、イギリスから工部省工学寮に招かれていた鉱山学の教師ジョン・ミルンでした。明治14年、ミルンと結婚したとねは、ミルン・トネとして新たな道を求めて、生涯、世界的な地震学者を支えました。その後もミルンは、明治28年に帰国するまで、地震観測機器の改良、地震に関する著書出版、耐震建築など日本の近代地震学を先導しました。やがて任期を終えたミルンは、トネ夫人を伴ってイギリスへ帰国。ワイト島に移り住みます。地震観測所を建てて、未開の地震学を追究し続けた日本地震学の父は、西欧地震学の祖となったのです。
ミルン亡き後、トネ・ミルンは病のうちに函館へ帰国、函館の本願寺函館別院墓地に父・堀川乗経とジョン・ミルン、トネ夫妻が眠っています。