ソーシャルアクションラボ

2024.02.13

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 日本と台湾の上下水道の父 W.K.バルトン 連載53回 緒方英樹

水のもたらす思わぬ災禍

 
 能登半島地震の被災地では、未だに断水が続いている地域もあることに胸が痛みます。水が滞ると、飲み水だけでなく、トイレや手洗いに使用するものも含めて、いきなり生活と心に支障をきたすだけでなく、感染症の拡大も懸念されています。

 私たち一人一人が、1日に使用する水の量は、国土交通省の統計によると、約300リットル近いということです。地球上の水資源には限りがあり、飲み水として利用できる水は地球全体の0.01%にも満たないとか。そして、ユニセフによると、世界の約20億人が安全に管理された飲み水の供給を受けられずにいるといいます。

 水の災禍は、海や川からだけでなく、思わぬ形で襲ってきます。上下水道の不適切な整備もその原因の一つです。

 例えば、下水道の主な役割は、日本では当初、雨水及び汚水を排除することを目的としていましたが、1970年の下水道法改正において、公共用水域の水質保全が目的に追加されました。下水道は、①暮らしを清潔に保ち、②河川などの水質悪化を防ぎ、③降った雨を速やかに雨水管に流すことによって、浸水被害を防いでいます。

 新型コロナウイルスの対応では、下水処理をしたうえで安全に川や海に排出する下水道が、ウイルスの蔓延防止に大きく貢献したとも言われています。

 時代を振りかえってみますと、水のもたらすとんでもない災禍が何度もありました。明治時代の初め、人々が東京などの都市部に集中するようになったため、大雨による屋内への浸水や低地に溜まった汚水が原因となって、1876(明治9)年頃から都市部を中心にコレラが流行し、10年で全国1万人を超える患者が出ました。急激な早さで死に至ることから、新聞には「虎列刺(これら)」とも書かれました。一日千里を走る虎になぞらえたようです。特に、東京の衛生施設の不備が感染拡大の原因とされました。

都市計画の根本は上下水道の改良にあり

 
 1887(明治20)年、そのコレラをきっかけにスコットランド・エディンバラ生まれの技術者が明治政府の招きにより来日しました。ウィリアム・キニンモンド・バートンです。来日中は、バルトンと呼ばれていました。

 コレラが国家を滅ぼす。危機に直面した政府は、上下水道こそ悪疫を撲滅してくれる切り札だとして、その先進地・ヨーロッパから専門的な水道技術者を招聘したのかバルトンでした。

スコットランド・エディンバラ生まれの技術者・写真家William Kinnimond Burton

 バルトンは、都市計画の根本は上下水道の改良にあるという考えから、上水道では水源の汚染に妥協を許さず、下水道では汚水管にし尿は流さず、雑排水のみとしました。東京の上下水道設計の後は、地方の23都市で衛生状況調査を行い、計画、設計、指導しました。

 バルトンは、ロンドンで衛生業務の実績を買われて来日した時、32歳。八面六臂の活躍で全国主要都市の上下水道に関わり、汚染防止には厳格な態度で臨んだのです。下水管に汚濁物が溜まらない工夫にも心を砕いています。

 例えば、神戸市では1888(明治21)~1892(同25)年度の患者数が3884人に上り、そのうち死亡者は 1889人に及び、死亡率は48.9%と非常に高い状況にありました。神戸市は上水道布設を熱望していました。1892(明治25)年神戸市は、バルトンを招き、水道布設の調査、水源地(布引五本松ダム)の踏査を行っています。

 そして、1897(明治30)年、神戸市は布引五本松ダムの建設に着工、吉村長策、佐野藤次郎らによって布引五本松ダムが1900(明治33)年3月に完成しました。

布引五本松ダムは、明治33年に完成した水道専用ダムで日本最古のコンクリートダム建設当時の写真(出典:土木学会付属土木図書館「土木貴重写真コレクション」)

多才な衛生工学の恩人

 
 パリにエッフェル塔が建った翌年の1889(明治22)年、日本で初めての高層ビルが忽然と浅草に出現しました。赤煉瓦造りの凌雲閣(りょううんかく)です。通称・浅草十二階。当時の「時事日報」も新名所を紹介しています。「電気仕掛けをもってエレベートルを備え・・建築の設計は傭教師英人バルトン氏」。設計は、バルトンでした。

 日本初のエレベーターは、危ないからと螺旋階段に変更されました。巷の噂は天下に流れ、錦絵はこぞって描いた新名所。開所祝いに9階と10階では芸者の美人投票が催され、衆人競って殺到したそうです。

 ところで、衛生工学の専門家がなぜ高層建築の設計をしたのか。バルトンは水道のみならず港湾などの工学にも深く通じ、写真は、玄人はだし、濃尾大震災の現地に飛んで記録写真集を出して、日本写真会の立ち上げにも関わっています。

 在日、9年間。いよいよ帰郷という時、台湾の後藤新平から呼ばれます。風土病の蔓延する台湾で衛生問題の解決を頼まれました。意気に感じて引き受けます。そこがバルトンらしさなのですが、辺ぴな山野での現地調査は困難をきわめました。帝国大学工科大学土木工学科で教え子の浜野弥四郎(はまの・やしろう)が助け、淡水や基隆、台北の水道建設に奔走します。しかし、バルトンは風土病に倒れてしまいます。故郷のロンドンに帰ることはかなわず、享年43歳。弟子の浜野弥四郎がその遺志を引き継いで、大小水道計100カ所以上が建設されていきます。台北の上下水道は東京や名古屋よりも早く建設されました。

 台湾の人たちは今もバルトンや浜野の恩恵を忘れてはいません。日本と台湾は、バルトンという共通の恩人を持っているのです。

 イギリスの小説家アーサー・コナン・ドイルは、幼少時バルトン家に預けられていたことがあり、ドイルとバートンは幼馴染で、バートンが来日した後も親交があったようです。

緒方英樹(おがた・ひでき)土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ 土木史委員会副委員長。著書「大地を拓く」(理工図書)で2022年度土木学会出版文化賞を受賞