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2024.04.11

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 明治日本に西洋文明を灯したゼネラリスト ~リチャード・ヘンリー・ブラントン~ 連載55回 緒方英樹

明治政府が雇ったはじめての外国人は、イギリスからやってきた!

 リチャード・ヘンリー・ブラントンは、明治政府が雇用した最初の外国人です。ブラントンは開港後間もない1868(明治元)年に採用された英国人技師で、横浜の水道や港の計画、日本大通りや横浜公園などを設計・施工したことから“横浜のまちづくりの父”として知られます。

横浜公園の正面口(日本大通側)から入るとリチャード・ヘンリー・ブラントンの胸像がある。横浜公園を設計したブラントンはスコットランド出身の英国人土木技師=緒方彰洋撮影

 1859(安政6)年、開港されたばかりの横浜は、小漁村にすぎませんでした。当時、横浜の主要道路には、掘割が設置されていましたが、各所で溝が詰まり、あふれ出してしまうという状況でした。そんな横浜に当時最先端の技術がもたらされていきました。その先導者の一人がブラントンです。

 例えば、横浜のまちはブラントンの足跡があちこちに残っています。1866(慶応2)年の大火事で荒れたままになっていた横浜の居留地を近代的な市街にするため、ブラントンは多くの提案を行ないました。生活や災害を考慮してつくられた36メートル道路は、現在の日本大通です。この道路は居留地と日本人街の境界街路でした。また、ブラントン設計による「吉田橋」は、日本で2番目にできた鉄の橋で、地元では「かねの橋」と親しまれました。そのほか上下水道や配水管の埋設のみならず、横浜という都市のグランドデザインを示したのです。

 特に、1870(明治3)年、ブラントンが神奈川県に提案した横浜の近代水道建設案では、ろ過装置などを備えた新技術導入を提唱しました。ただ、明治新政府からは財政不足から見送られたということです。

辺境からともった西洋文明

 イギリスで鉄道技師だったブラントンは、灯台建設の経験はありませんでした。そこで、採用通知を受け取ると灯台建築家に知識と実地をみっちり仕込まれ、来日したのは1868(慶応4)年8月のことでした。ひと月後に江戸は明治と改元。時代の大きな転換期に遭遇したブラントンには不安もあったかもしれませんが、思わぬ形で忙殺されることになりました。

 ブラントンの来日を手ぐすねを引いて待ち受けた役人たちに、灯明台役所の建設や横浜居留地の測量など多くを頼まれて、灯台建設の視察に出発したのは11月末のこと。イギリスの軍艦に乗って、灯台を立てる場所を選び、ともに来日した技術者たちと精力的に建設を進めていきました。

 最初の完成は、神子元島(みこもとじま)灯台です。下田から沖合1キロメートル、ペリーが「岩の島」と呼んだ絶海の孤島でした。暗礁が多く潮流も早い上に、資材や人の運搬も難儀しました。それでも着工後わずか1年で点灯したのは1870(明治3)年。現存する最古の石造灯台です。

ブラントン設計による神子元島灯台は、石造としては、わが国に現存する当時の姿をそのまま残している最古の灯台

 江戸時代まで、海の道標は、灯明台のかがり火か神社の常夜灯しかなく、日本の海岸線は、外国船から「ダークシー」と怖れられていました。その名残は、常夜の鐘があり、夜間に沿岸を航海する際にそれらを目安にしていた海上の船は、やがて光が明滅する灯台の周期によって場所を識別するようになります。その灯台が設置される場所は、岬や島の上などどこも辺ぴで危険な場所です。ですから、西洋文明は辺境からともっていったというわけです。

 ブラントンは帰国するまでの約8年間で、30基の灯台(うち2基は灯船)を建て、そのうち14基が現役です。耐震設計がなされていたのです。神子元島では、火山灰と石灰石を焼成してセメントの代わりとしました。静岡の御前埼灯台では、村役人の家に駐在して工事を指揮し、日本人技手の棟梁(とうりょう)はザンギリ頭に洋服を着て仕事をしたと村誌にあります。

 1871(明治4)年、ブラントンは、灯明台役所構内に灯台技術者養成のための「修技校」を設けました。これが工部省工学寮、工部大学校、帝国大学工科大学へと発展していく起点となったのです。しかし、ブラントンの活躍は灯台建設にとどまらない業績を残しました。

技術者とは社会進化の旗手であるという「エンジニア思想」

 ブラントンは、総合的な知識と経験、広い視野と判断力を持つゼネラルエンジニアとして灯台の仕事以外にも港湾建設や都市計画、まちづくりなど、あらゆる土木の仕事を、1876(明治9)年に帰国するまで次々とこなしていきました。

 1868(明治元)年、開港当時の新潟港は、水深も浅く海波と流下土砂による港口閉塞が頻繁に発生して航路が定まらない等の悪条件下にありました。そこで、明治政府は、1871(明治4)年から1881(明治14)年にかけて、イギリス人ブラントンをはじめオランダ人リンドゥ、エッセル、ムルデルら外国人技師を調査のため新潟港に派遣し、信濃川治水対策と併せた河口改修の重要性や河口における東西二つの突堤築造に関する提案を受けました。1871(明治4)年、信濃川の調査に訪れたブラントンは、信濃川河口部に大きな砂州(さす)があり、水深が浅いことを調査して河口部の改修計画を提案しています。

 ブラントンは、土木・建築のよろず屋さんよろしく都市計画、鉄道、電信、港湾計画など広範囲に及びました。その後に来日した優れた外国人がそうであったように、ブラントンもまたゼネラリストだったのです。ゼネラリストとは幅広い範囲の知識を持ち、さまざまなことに対応できる能力を持つ人を指します。こうした幅広い分野の仕事は、今で言うコンサルタントのさきがけと言えるでしょう。そして、何よりもブラントンが示した大きな功績は、近代化が始まった日本に、技術者とは社会進化の旗手であり、社会発展の原動力であるという「エンジニア思想」を、誠意と勇気をもって注ぎ込んでくれたことだと思います。

緒方英樹(おがた・ひでき)土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ 土木史委員会副委員長。著書「大地を拓く」(理工図書)で2022年度土木学会出版文化賞を受賞