ソーシャルアクションラボ

2024.04.14

水俣病は終わっていない 企画展を通して見える社会の現在地

 水俣病は終わっていない。その事実に向き合い、「負の歴史」を伝える意味を考えさせられた。

 1974年の創設から50周年になる国立民族学博物館(みんぱく、大阪府吹田市)で、企画展「水俣病を伝える」が開かれている(6月18日まで)。なぜ「みんぱく」で? その疑問は展示会場を訪ねてみると氷解した。

 水俣病そのものを解説する企画ではない。56年5月1日の公式確認前からの歴史と被害者の苦しみを記録や記憶に残し、公害の経験を生かしたまちづくりに尽くしてきた人々の努力と情熱に焦点を当てる。会場には映像や写真、被害者や支援者が残した印象的な言葉、古い漁具を含む生活用品などが展示され、現地をフィールドワークしているかのような構成になっている。展示物の多くは、水俣病を伝える活動の拠点として一般財団法人「水俣病センター相思社」(熊本県水俣市)が運営する「水俣病歴史考証館」が所蔵する資料だ。

 「水俣は自分の原点」と語る人と一緒に会場を歩いた。藤井絢子(あやこ)さん(77)=滋賀県守山市=は「環境NGO」という言葉になじみのなかった頃から、市民運動の立場で環境問題に取り組んできた。出身は神奈川県。東京で学生生活を送っていた69年、水俣病を社会に知らしめた石牟礼道子さん(27~2018年)の「苦海浄土」を読んだのが人生を変えた。「当時はベトナム反戦や安保反対などの学生運動が盛んで、自分もデモや集会に参加していました。私たちの世代が育ったのは高度成長期で豊かになっていく時代。その同じ日本で、こんな公害が起きていたことがショックでした」

 直後に取った行動が、水俣の海に有機水銀を排出していた企業であるチッソの株の購入だった。「どんな会社なのか、様子を見たいと思って」と株主総会に出てみたのだという。71年に夫の転勤で移り住んだ守山市にはチッソの関連工場があった。「不思議な縁を感じましたね」。そこで4人の子を育てた。各地で環境破壊が深刻化した時代、77年には琵琶湖で生活排水などが原因の大規模な赤潮が発生した。

 「水俣の二の舞いにしてはいけない」。重要なことは住民の暮らし自体が持つ「加害者性」だった。有機リン合成洗剤を使わない「せっけん運動」の呼びかけは滋賀県全域に広がり、食用油の廃油を粉せっけんにリサイクルする取り組みに発展した。

 89年には環境配慮型の商品に特化した全国唯一の「環境生活協同組合」を創設して理事長に。海外の公害被害者と交流を深めるなど活動は広がっても原点は忘れない。80年代から毎年のように水俣を訪れている。環境省中央環境審議会の委員を務めていた頃は、会議でことあるごとに「水俣」に言及したという。

 企画展で紹介されている人たちの中には藤井さんが知る顔が何人もいた。奪われた地域の文化と人間としての尊厳、そして伝えようという努力に接してきたからこそ、今も続く被害に蓋(ふた)をし、切り捨てるかのような司法判断や環境行政に憤る。

 企画展会場で最後のパネルは、これからの活動が抱える課題を列挙していた。被害者の高齢化と活動の担い手の減少、社会の変化に伴い失われていくリアリティー、長引く裁判への理解不足……。「他の公害や原発被害、戦争被害など、置き換えれば全て共通します。子や孫に安心できる社会を渡せません」。そう語る藤井さんに「引退」は考えられない。

 水俣病をなぜ伝えていくのか。原点に立ち返ることで、私たちが生きる社会の現在地を確認できるのだ。【宇城昇】

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