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2024.06.17

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ  近代土木の夜明け 将に将たる人~古市公威~ 連載57回 緒方英樹

自らを「ぬえ的人物」と称した時代の先駆者

 東京大学の本郷キャンパス、東大正門から入り左手、杖を持ちソファーに腰をかけた古市公威(ふるいち こうい) (1854~1934)の銅像があります。帝国大学工科大学(東大工学部の前身)初代学長です。

東京大学工学部11号館の手前に建つ古市公威の銅像=鈴木三馨撮影

 古市は、明治時代から昭和初期まで、土木学会初代会長、工学会会長、理化学研究所長、東京地下鉄道社長、枢密顧問官、万国工業会議会長など華々しい要職を歴任した第一人者なのですが、自分の人生を振り返って、こんなことを述懐しています。

 「余は学者に非ず、実業家に非ず、技術者に非ず、又、行政家に非ず、色彩極めて分明ならざるぬえ的人間と称すべきか」

 ぬえとは、平家物語などに登場する妖怪で、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビといった何だか得体のしれない存在です。なぜ、古市は自分をぬえになぞらえたのでしょうか。

時代を背負った先駆者たちの覚悟!

 1853(嘉永6)年、アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航しました。江戸から明治という新しい時代に大転換するきっかけとなったのは、この黒船に代表される先端技術と圧倒的な外圧でした。横浜村に上陸した兵士たちの近代的装備に度肝を抜かれた江戸幕府は、その翌年の1869(安政元)年、日米和親条約(神奈川条約)で国を開いたのです。

横浜への黒船来航 随行筆記した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ

 時代は江戸から明治へと移り、近代的な国づくりを急いだ新政府は、先進的な科学技術を持つ欧米から各分野の専門家、いわゆる「御雇い外国人」を招いて指導を仰ぎました。

 その一方、日本人による日本の自立をになうべく、各分野で有能な若者を選抜して海外へ留学させていきます。彼らは、近代日本の国づくりのため慎重に選ばれた最初のエリートたちでした。安政元年生まれの古市公威もその一人です。

 古市をはじめ海外に渡った日本の若者たちの刻苦勉励はすさまじいものがありました。なぜなら、彼らは藩や国家の使命を背負っていたからです。わずか一世紀ほど前、自分の国の将来と自分の夢を重ねて懸命に生きた日本人たちがいました。

 「自分が一日でも勉学を怠れば、それだけ日本が遅れる」

 古市が示した気概と使命感は、明治初期、選ばれて欧米へ留学した若者すべてに共通する自覚であったことでしょう。

 1875(明治8)年、文部省国費留学生としてフランスのエコール・サントラル(工学の名門・パリの中央工業大学)に留学した古市は、そこで「百科全書的教育」、すなわち土木だけでなく幅広い分野を学びます。そこで、工学とは総合的であるという思想を深く真摯に受けとめました。

 単に先端技術を学ぶのではなく、近代日本のリーダーとして総合的な才腕を磨く。姫路藩士の子として生まれた古市は猛勉強に励み、入学の時は3番、卒業時は2番という優秀な成績でフランス人を驚かせました。さらに、エコール・サントラルを卒業した古市は、留学を1年延期してパリ大学理科大学で数学・天文学を学んで1880(明治13)年に帰国、内務省土木局に入ります。

 「工学家たるものはその全般について知識を有せざるべからず」。エコール・サントラル創立時の宣言文です。古市は、その宣言通り、極端な専門分業を戒め、総合的な土木技術者像を自らに課して社会に示した人でした。

 まさに、ぬえ的人間像とは「社会の要請に従い自在に変化し、求められる能力を発揮する」ことだったのです。

現在の基盤となった「明治改修」とは何か

 内務省土木局勤務となった古市が最初に取り組んだ仕事は、阪井港(三国港、九頭竜川河口)、豊平川、信濃川、阿賀野川、庄川など河川や港湾の修築工事でした。

 ところが、1886(明治19)年5月、古市は帝国大学工科大学の学長に就任します。その背景には、河川事業を積極的に進めるため、優秀な河川技術者を早急に育てたいとする政府の意向があったと言われています。内務技師も兼任した古市は、河川・運河・港湾を担当しました。

 さらに、政府直轄による治水の要望が全国的に高まったのを受けて、1896(明治29)年、国直轄による洪水防御工事(高水工事)を目的とする河川法が制定されます。それほどに、日本の河川は江戸時代から洪水に悩まされ、各所で甚大な被害が相次いでいたのでした。河川法、砂防法制定で、帝国議会の答弁に立ったのが古市です。

 河川法の成立に基づき、即座に淀川・筑後川で国直轄による高水工事が着手されました。両工事を現地で指導したのは、仏エコール・サントラルでの学友・沖野忠雄でした。沖野は、淀川改修とつながる大阪築港で大型施工機械を積極的に導入、技術者集団のリーダーとなって、全国の河川事業を推進します。車の両輪のごとく、古市は技術官僚の首脳として洪水氾濫を繰り返す河川改修の行政基盤をつくり、全国の河川改修事業を精力的に推し進めていったのです。

明治の木曽川改修 導水堤 木曽川海口導水堤之内石堤全部河裏ヨリ之図土木学会土木図書館デジタルアーカイブスより

 こうして、明治時代に始まった洪水防御を目的とする河川改修事業は、「明治改修」と称され、それまでの乱雑な無提地帯が整備されて、現在の河川の骨格が形成されたことは日本の河川にとってきわめて画期的なターニングポイントと言えるでしょう。

 古市は、土木学会初代会長講演で、土木技術者は〝将に将たる人でなければならない〟と言って、土木工学の総合性を強く主張しました。

緒方英樹(おがた・ひでき)土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ 土木史委員会副委員長。著書「大地を拓く」(理工図書)で2022年度土木学会出版文化賞を受賞