2024.07.31
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 種子島の女殿様・松寿院は土木偉人 連載58回 緒方英樹
鉄砲伝来の種子島に尽くした松寿院
時代は、江戸時代後期。種子島で、松寿院(しょうじゅいん)という“女殿様”が類まれな土木事業を成し遂げて島民の幸せづくりに尽くしたことをご存じでしょうか。
種子島と聞いて、まず頭に浮かぶのは鉄砲伝来ではないでしょうか。
戦国時代の1543年、種子島の最南端の門倉岬(現在の南種子町)に一隻の中国船が漂着、この船に乗っていたポルトガル人から火縄式鉄砲が種子島家に渡り、日本に初めて伝わったことが知られています。ここで、肝心なことは、鉄砲伝来の地である種子島に、鉄砲を国産化できる高度な製鉄・鍛造(たんぞう)の技術が存在していたことによって、戦国時代の終結から日本の近代化にまでつながる大きな役割を担ったことにあるでしょう。
さて、松寿院が種子島島民の生活向上のため、数々の大事業に立ち向かって激動の生涯を生きたのは鉄砲伝来から約300年後のことでした。
1797年、第9代薩摩藩主・島津斉宣(なりのぶ)の次女として生まれた於隣(おちか)は、生後3カ月で種子島家にこし入れしました。後の松寿院です。
薩摩藩島津家に生まれて徳川将軍家に嫁いだ天璋院篤姫(あつひめ)の活躍は、NHK大河ドラマで知られますが、島津斉彬、久光の叔母であり篤姫の伯母にあたる松寿院の生涯もまたきわめてドラマチックであり、種子島の島民に幸せな暮らしを願った献身には詠嘆させられます。
薩摩藩主の娘として生まれた於隣は、種子島島主に嫁ぎますが若くして夫を亡くし、その後、松寿院と号して夫の代わりに島を治めます。そして1854(安政元)年、嫡子久尚を連れて種子島へ帰った松寿院は、生涯を閉じるまで幕末の11年間、“女殿様”として多くの土木事業を成し遂げて島の殖産興業に尽くしました。
松寿院の大治水工事~大浦川の川直し~
台風常襲地帯である種子島に、河川は二級河川が13水系、準用河川が56水系あり、いずれも小規模で急峻な河川となっています。
南種子町(みなみたねちょう)平山にある大浦川(おおうらがわ)には、現在、塩田跡地の河口干潟にメヒルギの密集した種子島マングローブパークとして整備されていますが、江戸時代末期ごろまでの大浦川は、満潮時には水かさが増して人も馬も通れず、少しでも海が荒れると川沿いに潮が入り込んで米など農作物に甚大な被害を及ぼしていました。
種子島に腰を据えた松寿院57歳になっていましたが、精力的に島内を巡視、荒れ果てた大浦川の畔で解決策を練ります。家臣、工事担当奉行と話し合い、村人からは潮の干満でどのように川の流れが変わるのかなど聞き取ります。
紆余(うよ)曲折の末、松寿院は、大浦川河口の川幅を広げて川の流れを変えるという一大治水工事に挑みます。
安政4(1857)年、大浦川の延べ200メートルを真っすぐにする川直し工事は、西村時措を総監督に延べ1万6485人の労力で土を掘りモッコで土手を築き、正月から農繁期は休んだものの10月初旬に終了。河を掘りあげながら築いた川筋の堤防は、人や馬の往来に役立ち、上流域の荒れ地が立派な水田として生まれ変わりました。
総費用の285両は松寿院のお手元金で、この時に築かれた土手は「安政の土手」と名づけられ、翌年、松寿院は、水天の碑を建立しました。そして1861年、地元平山の人々が松寿院の業績を讃えて「安政の川直しの碑」を建てました。
波止の修築・増築で港の整備
松寿院が行った土木工事で最も大がかりだったのが赤尾木津(あかおぎつ)という港の波止(はと)の修築増築工事でした。赤尾木とは種子島氏の城下町として島の拠点になっていた一帯で、波止とは港の海中に石や土を積んで築いた防波堤です。
周囲を海に囲まれた種子島は、暗礁が多い海岸線となっています。赤尾木の津(港)は、冬の強い季節風で海が荒れ海難事故が多発、少しの海荒れにも対応できないほどでした。
交通の便と交易を盛んにする港の整備を薩摩藩庁に願い出た松寿院は、1860年から工事を開始します。薩摩藩庁役人を総裁に、家老前田新五兵衛宗誠と西村時乗を波止築方掛にして、石を運ぶ島内の船延べ7200隻、島民延べ2万3131人を動員。築港に使う石が牛馬にのせたそりで、山から港へ毎日何度も往復したということです。そして、1862年7月、足かけ3年で宿願の大工事が完成しました。
現在、赤尾木港と呼ばれた西之表旧港に一対の防波堤「沖の岸岐(がんぎ)」と「築島(つきしま)」があります。現在でも破損することなく、江戸時代後期の石組の技術が今も残る貴重な西之表市指定文化財となっているとともに、先祖の血と汗の結晶をしのぶ歴史資産と言えるでしょう。
松寿院は、そのほかにも塩田開発、砂糖製造、教育事業など多くの業績を残しましたが何がその献身的な行動力を突き動かしていたのでしょうか。
島内を何度も巡り、民の声を聞き、暮らしの向上を願う。そこには、古代僧侶の行基が体現した「利他の心」、すなわち、他の人の幸せづくりに尽くすという土木の原点に通じると感じ入ります。
松寿院の生涯について、種子島家28代当主種子島時望(当時男爵)の長女である村川元子氏の労作「松寿院 種子島の女殿様」があります。