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2024.09.05

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 大用水路を開削したキリシタン武将・後藤寿庵 連載59回 緒方英樹

「水陸万頃」(すいりくばんけい)の地

 岩手県南部に位置する胆沢(いさわ)平野は胆沢川がつくった扇状地です。扇の半径は約20キロメートル、扇状地の面積はおよそ1万5,000㌶という日本でも有数の広大な田園地帯です。

 その昔、「続日本紀」延暦8(789)年の条には、胆沢の地を「水陸万頃」と記されています。当時の人が見た胆沢の景色は、水陸万頃、すなわち、豊かな水と広々とした大地になるだろうと安定した暮らしへの憧憬を抱いたのでしょうか。

 しかし、豊かな水と広大な大地を結ぶには、胆沢川から水を引いて用水を確保することが不可欠でした。そのために水と闘った先人たちの営々たる開拓の歴史があります。ここで紹介する後藤寿庵(ごとうじゅあん)もそうした開拓者のひとりです。

水ヒストリーでひもとく「水神様への祈り」

 胆沢の歴史は、大地に刻んだ水の歴史とも言えるでしょう。

 1998年、胆沢町馬留地区に旧穴山堰(きゅうあなやまぜき)という古代用水路が、胆沢ダム建設のための遺跡調査で見つかりました。開削後、500年ほど経ったトンネルの岩肌にはノミの跡や燭台がはっきり残っていたということで、総延長約3キロメートルの農業用水路は、昭和の初めころまで現役の堰として使用されていました。

 堰とは、人々が水を利用するため、川の途中や流出口などに設けて流水をせき止める構造物のことです。

 穴山堰の水神供養碑が国道397号の北側に残っています。これは穴山堰の上堰(かみせき)と下堰(しもせき)の分水比率を刻んだものです。この石碑の場所から上堰と下堰に分かれるため、水の分配比率を取り決めて刻まれたようです。それほどに、水をめぐる争いは熾烈であり、地域農民たちの祈りが込められていたのでしょう。

 この旧穴山堰と同時代、胆沢平野に茂井羅堰(しげいらぜき)が開削されています。北郷茂井羅(きたごうしげいら)という女性が用水開削を導いた言い伝えとか、さらに古い時代から水田が拓かれていたという説もあるようです。

 旧穴山堰の開削は、後藤寿庵が胆沢平野を灌漑する用水・寿庵堰に挑む100年ほど以前のことではないかと推測されています。

キリシタン武将が挑んだ用水開削

 寿庵堰は、1618(元和4)年、江戸の初期に後藤寿安が着工し、一時中断の後、地元の千田左馬(せんださま)親子と遠藤大学らがこれを引き継いで1631(寛永8)年に完成したと言われています。

 寿庵堰の取入口は、胆沢川上流に広がる扇状地の頂きにあって、開削して後、胆沢平野全域へ水を送りやすくしました。

 では、後藤寿庵とはどのような人物で、なぜ、どのようにして大用水堰を切り開いたのでしょうか。

 寿庵の生没年は不詳、生い立ちについても定かではありません。藤沢城主岩淵家の二男として生まれ、伝わる寿庵の幼名は、岩淵又五郎。1590(天正18)年、豊臣秀吉は小田原城の北条氏を滅ぼしたのち、奥州(奥羽地方)攻めを行います。これによって主家・葛西氏と共に岩淵一族家臣は四散。又五郎は諸国を流浪して肥前(長崎県)に入ります。キリスト教と深いつながりのある地でした。又五郎はキリスト教に深く心を捧げて信者となり、五島列島で洗礼を受けてジョアンと名乗り、岩淵の姓を五島(のちに後藤)と改めました。やがて寿庵の才と知識を見込んだ仙台の領主・伊達政宗に家臣として召し抱えられ、胆沢郡福原(今の奥州市福原)の領主となります。政宗は、仙台領内でのキリシタン布教と家臣の信仰の自由を許し、寿庵の家臣も熱心な信徒となっていきました。

「福原はまるでアラビアの砂漠のようだ」。

 寿庵が福原に赴任してまもなく、訪ねてきたイタリア人宣教師アンジェリスの言葉に、寿庵は胆沢川から水を引く開拓を決心します。そして、巡視に来た伊達政宗を荒野の見渡せる山上に案内して開拓の必要性を訴えたと想像します。

 胆沢川揚水。どのようにして胆沢川から用水を揚(あ)げるのか。揚水地は胆沢川上流の金入道(かなにゅうどう)という標高120メートルの地点。寿庵は、外国人宣教師たちに土木技術を学んだのでしょう。現代のクレーンに似た土木機械をつくって溝を掘り、巨大な石を積んで高さ1丈(約3メートル)の取水口をつくっていきます。さらに、長さ940間(約1.7キロ)の水路を数カ月かけて掘り進むと、水を分け合う分水地まで引いていきました。

 その分水地から水の流れを2つに分けます。1つは、南東に流れて北上川に注ぐ上堰、もう1つは、東流して北上川に注ぐ下堰です。

 上堰、下堰から流れて出た水は、各村へと注がれていきました。

 キリシタンであった寿庵はラテン語でヨハネ、寿庵堰は日本で唯一、クリスチャンネームを冠した農業用水路です。

「水陸万頃」をもたらした福音

1931年に建てられた後藤寿庵廟堂(岩手県奥州市)  毎年9月11日に寿庵祭が行なわれている

 しかし、胆沢川から揚水する大工事は、完成を見ないうちに中断します。

 江戸幕府3代将軍・徳川家光の治世となると、キリシタン弾圧の強化がはかられ、主君・政宗にも奥州のキリシタン取り締まりが厳命されました。寿庵を惜しんだ政宗は、布教をしない、宣教師を近づけないことを条件に信仰を許そうとしましたが、寿庵はこの条件に応じませんでした。寿庵は、政宗から受けた恩ははかりしれないが、神から賜わる恩寵(おんちょう)はさらに大きいと断じたということです。

 キリスト教では切腹すなわち自殺は罪業とされていました。寿庵は、堰の完成を待たずして北の南部領に逃れたとも伝わりますが、その行方は謎のままです。

 工事中断後、寿庵から用水土木技術を学んでいた弟子の千田左馬父子と遠藤大学の指導のもと、およそ17キロメートル分の工事が進められ、寿庵堰は1631(寛永8)年に完成。2,600余町(約2,579ヘクタール)におよぶ広大な地域が美田に蘇りました。

 そして、1924(大正13)年、寿庵の功績は従五位の恩命に浴し、1917(昭和6)年には寿庵堰水利組合と地元有志により寿庵廟堂が建てられてその恩恵を顕彰しています。

緒方英樹(おがた・ひでき)土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ 土木史委員会副委員長。著書「大地を拓く」(理工図書)で2022年度土木学会出版文化賞を受賞