2024.09.08
工女の背中見て、芽生えた自立心 富岡製糸場の中で育った女性の挑戦
生糸の生産で日本の近代化を支え、後に世界遺産になった「富岡製糸場」(群馬県富岡市)で幼少期を過ごした女性がいる。埼玉県熊谷市の特定社会保険労務士、古屋寿子さん(66)だ。場内の社宅で暮らし、「工女」と呼ばれる女性が生き生きと働く姿を間近で見てきた。大人になり、工女のように職業を持って自立する道を選んだ古屋さんが目にした世界とは――。【加藤栄】
母子手帳を開くと、居住地の欄に富岡製糸場と同じ住所「富岡市富岡1」が書かれている。1987年まで製糸場を操業した片倉工業(東京都)に父が勤めていて、物心つく前から社宅に住んでいた。
幼少期は、社宅に住む子どもたちと場内を探検し、工女の寮にも足を運んだ。「橋幸夫とか舟木一夫とかのポスターが貼ってあってね。そこで明るいお姉さんたちが世話をしてくれた」と懐かしむ。
場内には、後に国宝となるレンガ造りの倉庫「東・西置繭所」や、繭から糸を取るための機械が並ぶ繰糸所などがある。「繭から糸を取る機械が動いているのが面白くてよく見ていた」。好奇心旺盛な古屋さんは、いつしか機械に興味を持つようになった。
小学1年が終わる頃、父の転職に伴い県内の別の場所に引っ越した。その後、県内の女子高を経て国立大学の工学部へと進学した。大学では1学年約400人のうち、女子学生は2人だけ。国内全体で女子の大学進学率が1割を超えてから、まだ間もない時期だった。教員から「女子が勉強しているのは税金の無駄遣い」「女だからテストの点が悪くてもよい」と言われ、理解ができなかった。
そのとき、古屋さんは女子高の教師から言われた言葉を思い出した。「働く女性が少なく働きづらいけど、あなたたちが先陣を切っていけば女の人が働ける世界になる。不合理だけど頑張りなさい」。この言葉を支えに、東京都内にある医療機械を作る会社へと就職を決めた。「小さいころから働く女性を見て育ってきた私にとって、働くのは当たり前だった」
配属されたのは、富岡市内にある工場だった。製造ラインを担う約200人の女子工員たちを指導する係についた。しかし、ここでも「女性」というだけで働き方や待遇に差があった。
当時は男女雇用機会均等法が施行される前で、労働基準法の規定により女性は残業時間が男性より短く、深夜に働くこともできない。結婚したら退職するのも当たり前だった。「この働き方では、仕事で同じように成果を上げられない」と歯がゆかった。
「父親に愚痴をはいたら、『子どもを産む体だから』と言われた。だけど、深夜業務をする看護師の女性だっているし、へりくつだと思った」。古屋さんは女性の仕事とされたお茶くみも、男性の仕事とされた機械の実験も率先してやった。それでも給料は男性より低く、同僚からも「もったいない」と言われた。もっと成長できる環境に身を置こうと、結婚を機に退職し、転職することに決めた。
三重県で夫と暮らし仕事を探したが、ハローワークの職員から言われたのは「既婚女性に正社員採用はありません」。それでも就職情報誌を広げ、大学や前職で学んだ知識を生かせるプログラマーを目指し、名古屋市の会社に応募した。プログラマーの需要が高いのが影響したのか、その会社では性別が壁にならずに仕事が決まった。
古屋さんはその会社でソフト開発事業に携わり、統計やCAD(コンピューター利用設計システム)など「なんでもやった」。夫が埼玉県へ転勤になることが決まったが、仕事の関係者から東京での仕事をもらえることも決まりフリーランスに。群馬県の女性プログラマーから会社設立の誘いがあり、1991年には前橋市内に会社を設立し、夫と顔を合わせる暇もないほど忙しく働いた。
2008年のリーマン・ショックで仕事が減り会社を畳んだ。そこで次に目指したのが社労士だった。「父もなれたからなれるかなと簡単に考えたのよ。あとは、富岡製糸場で工女さんが周りにいたり、メーデーとかに参加したりしたこともあったから、働く人を支える社労士という仕事の大切さがわかっていたんだと思う」。10年に社労士の資格を取得して、働き始めた。52歳での初挑戦だった。
現在は社労士として給与計算や保険の手続きなどを担う。自身が働き始めた頃からの変化は大きく、男女雇用機会均等法は改正を重ねてセクハラ対策の義務化や性別を理由とした差別的扱いの禁止などの規定ができた。育児・介護休業法の整備もあり、課題は残しつつもライフイベントを経て女性が働き続ける時代になった。古屋さんは仕事を通して多くの女性の働き方に触れ、思うことがある。「制度が整えば、女性たちは出産や子育てを経ても仕事を辞めない。社労士として、若者や女性たちの意見に耳を傾けて、働き方改革に寄与したい」
工女に囲まれて成長した古屋さんは、還暦を超えてもなお、女性たちのために働き続けている。
富岡製糸場
富岡製糸場は1872年に操業を開始し、全国から集まった女性たちが生糸を大量生産した。女性たちは「工女」と呼ばれ、技術を身につけて地元に戻って製糸技術を教え、絹産業が盛んになっていった。
当初、外国人技術者たちが飲むワインが「生き血」と勘違いされ、うわさが広がったことから工女が集まらず、初代場長・尾高惇忠の長女ゆうが第一号になった。工女は埼玉や長野、新潟などの近隣県だけでなく、北海道や山口県などからも集まったという。
官営から民営に変わっても多くの工女が働き、日本の絹産業を支え続けた。西置繭所にあるギャラリーには工女たちが着ていた制服のレプリカが展示されているほか、製糸場近くの龍光寺には工女の墓もある。
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