2024.10.22
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 人生を2度生きた男・久保田豊 ~世界に羽ばたいた水力発電の夢~ 連載60回 緒方英樹
阿蘇が育てた夢
1890(明治23)年、久保田豊は熊本県の阿蘇山のふもとで生まれました。雄大な煙を吐く山々と、広い草原を見て育った少年は、やがて、生まれて初めて電気灯にふれ、水の力で起こる電気の不思議さにひかれ、滝を眺めては水力発電を夢見るようになります。そして、洪水など自然の怖さを身近に感じていた久保田少年は土木の道を選択します。
熊本中学(現・熊本高校)を卒業した久保田は、東京帝国大学土木工学科に入学します。「港湾工学の父」と呼ばれた広井勇教授の教えを受け、パナマに渡った青山士先輩、台湾に渡った八田與一先輩に刺激を受けて「自分も学問と技術によって世の中に役立ちたい」と願うようになります。そして、新しいエネルギーを作り出す水力発電に興味を持ち、「発電の土木技術」を卒業論文としました。
久保田は大学卒業後、内務省土木局に入り、東京土木出張所(関東地方整備局)に配属され、関東各地の河川事業に携わります。その仕事を通じて、憧れの青山技師と出会います。青山にパナマ運河工事というダイナミックな土木事業挑戦の話を聞くほどに、世界へ出て民衆のための土木にチャレンジしたい夢は募ったことでしょう。そして、自分の思うように出来ない役所勤めから、民間の「天竜川電力会社」へ転身します。ところが、不況で倒産。自分の小さな会社「久保田工業事務所」を設立するも肺病で入院してしまいます。夢はたちどころに遠のいていきました。
世界最大のダムづくりに挑戦
転機は、一枚の地図からもたらされます。手に入れた朝鮮全土地図から構想を得ます。半島北東部、鴨緑江(おうりょくこう)の支流・赴戦江(ふせんこう)、長津江(ちょうしんこう)、虚川江(きょせんこう)に注目、そこに水力発電所を建設して電気化学工業を興すという計画でした。
度重なる台風や出水など乗り越え、4年後の昭和5年に完成した赴戦江ダム発電所は、当時、日本の発電所出力を大きく上回る出力約20万キロワットとなりました。
赴戦江発電所建設の後、さらに多くの電力が求められたため久保田は長津江、虚川江にもダムと発電所を建設していきます。赴戦江、長津江、虚川江、各発電所の放流水は、工業用水のみならず、灌漑(かんがい)用水として水田が潤い、生産された化学肥料が大地を肥沃な大地に蘇らせたのです。
そして、1937(昭和12)年、当時、世界最大規模と言われた水豊(すいほう)ダムの建設に着工します。久保田は、トンネルを両側から掘り進むのではなく、くの字型に曲げて設計、両端と真ん中の三か所から掘削して工事期間を短縮、硬く凍った氷の上で橋桁を組み立てて鉄橋を架けました。常識にとらわれない工法を考案して実践していきました。
1944(昭和19)年、ついに、当時世界最大規模の水豊ダムが完成しました。高さ106メートル、延長900メートルの重力式コンクリートダムです。朝鮮と満州の境界につくられ70万㌔㍗という電力は、二つの国に半分ずつ送電され、多くの人々の暮らしを支えました。
戦前の日本内地には存在しない大スケールのもので、日本とは比較できないほど安い電力供給を可能にしたのです。しかし、1945(昭和20)年、日本は敗戦を迎えます。
久保田は、日本人の引き揚げや帰国の世話をした後、ひそかに病人に混じって引き揚げて列車に乗り込みました。
25年間の仕事全てを朝鮮に残し、何一つ持たず、郷里熊本に帰ったのです。後に久保田はその時のことを「自分の遺産が厳然として朝鮮にある。その民族のためにこれからの役にたてばと思った」と回想しています。
焼土と化した日本から世界へ、果てしない夢の実現
帰国した日本は、戦災で焼け野原と化していました。久保田は夢のすべてを失ったかに見えました。しかし、戦後、久保田は、火の鳥のようによみがえります。
56歳で久保田は、3000人の職を確保すべく私財を投じて社団法人と小さな株式会社(現在の日本工営)を仲間たちと立ち上げて、再び国外の開発プロジェクトに取り組みます。
バルーチャン(当時のビルマ)、ダニム(ベトナム)、ナムグム(ラオス)の水力開発事業、ブランタス河総合開発・アサハン開発事業(インドネシア)、韓国発電事業の技術協力など推進しました。
ビルマのバルーチャンに水力発電所をつくる大工事では、その調査、設計、工事の監督において、南国のしゃく熱や内戦による混乱の中、寝る間も惜しんで情熱を傾けました。この仕事によって、日本の高い技術力を世界に認めさせただけでなく、日本が海外で技術協力をおこなう見本を示したのです。
久保田は、プロジェクトをつくるだけでなく、それによってどういう産業を興せばいいかなど、相手国の利益と住民の生活向上を目指しました。久保田は、電力だけでなく河川改修、鉄道や道路の建設、農業用灌漑(かんがい)水路づくりなどを含む総合開発を手がけていきます。こうしたコンサルタントの仕事によって、ODA(海外経済協力)の源をつくったのです。
人生を2回生きたと言われる久保田豊。国際人として90歳まで世界で活躍しました。久保田は、常に、地球儀と5万分の1の地図をそばに置いていたといいます。地図を読む名人と言われた久保田は、たえず世界中の人々が豊かに暮らせる夢を描いていたのだと思います。