2025.01.16
先生に「蛍光灯」と呼ばれ…迷った末の障害者手帳 解いた吃音の呪縛

言葉が思うように出ない吃音(きつおん)のせいで駄目な人間だ。そう思い込んでいた鳥取県八頭(やず)町の会社員、入江達宏さん(54)は5年前、愛媛県の医師との出会いを通して障害者手帳を取得し、呪縛が解けていったという。経緯をつづった文章「人生のパスポート」が、反差別と人権の拡大を目指す2024年の「第50回部落解放文学賞」を受賞した。障害者と認定されることに抵抗感を抱く吃音当事者が少なくない中、どう心境が変わっていったのだろうか。【佐々木雅彦】
小学校では泣きながら音読
幼い頃から、しゃべり方が周りと違っていた。黙っていれば気づかれないが、話そうとすると、「ぼぼぼ僕は」とどもったり、最初の音が出てこなかったり。もがく姿はいじめの標的になった。小学校の国語の授業では、からかわれながら涙を流して音読した。「特殊学級(現特別支援学級)にいればいじめられないかもしれない。いっそ障害者として扱われたい。不謹慎ながらそういう考えに陥っていた」と振り返る。
症状は悪化していった。高校時代、授業で解答を途切れ途切れに発表すると、教師は「蛍光灯だな」と言った。スイッチを入れてもすぐに点灯しない古い電灯になぞらえたのだ。教室は爆笑の渦に包まれた。頑張って答えたのに評価されない。絶望し、自ら孤立して生きる道を選んでいった。
結婚、そしてスピーチコンテストへ
高校卒業後に就職して2年がたった頃、人生を変えるきっかけが訪れた。ある同僚女性とよく話すようになった。彼女はどもっても笑わず、じっと聞いてくれた。1994年に23歳で結婚し、まもなく長男が生まれた。
2カ月後、仕事の指導を仰いでいた先輩から全国スピーチコンテストへの参加を勧められた。冗談かと思ったが、先輩は「チャンスは自らつかめ」と本気だった。それまで吃音を口実に何事も諦めてきたが、断り切れずに応募すると書類選考を通過。地区予選出場が決まり、本番当日まで練習に明け暮れた。
会場では妻と長男が見守る前で「吃音で卑屈な人生を送ってきたが、これからは家族のためにも吃音に負けない人生を歩みたい」とどもりながらも訴えた。生まれて初めてやり切った。全国大会には進めなかったものの、審査員から「言葉一つ一つにメッセージがある」と評価され、特別賞を受賞した。
これ以降、何でもやってみようという気持ちが芽生えた。仕事でも営業などに挑戦。「ちゃんとしゃべれ」と苦情を言われながらも必死で取り組み、やがて昇進もした。
吃音克服へ 病院で訓練
ただ、職場の人間関係によってはコミュニケーションが取りづらく、精神面で不調をきたすことがあった。そんな時だった。2014年に知人から「治したいのなら」と川崎医科大学付属病院(岡山県倉敷市)を紹介された。言語聴覚士の福永真哉さんから2カ月ごとに訓練を受けるうちに、症状が改善していった。
19年夏に新聞で、吃音の症状を理由に障害者手帳を取得したという当事者の投稿を見つけ驚いた。何度も「障害者と認められたら楽になれるかも」と思ってきたから調べてみた。
障害者手帳は市町村が交付し、身体▽精神障害者保健福祉▽療育――の3種類がある。吃音は発達障害者支援法によって精神障害者手帳の対象となる。ただ、交付可能だと当事者間で広く知られ始めたのは約10年前だ。また、交付には診断書が必要だが、吃音に詳しい医師は少なく、取得への壁は高いのが現実だ。
「障害者」認定に抵抗もあったが…
入江さんは障害者でくくられることに抵抗もあり、迷った。「これまで吃音への偏見を振り払いながら生きてきた。今さら障害者認定を受けて意味があるのか」。でも「手帳があれば、もっと自信を持って人生を歩んでいけるのでは」という思いが勝り、決心した。
福永さんに相談すると、旭川荘南愛媛病院(愛媛県鬼北町)の院長で吃音相談外来を担当する岡部健一医師の存在を教えてくれた。
岡部医師は吃音当事者でもある。診察の際に「吃音者は周囲に理解されずに困っている。手帳を示して理解が得られたら気持ちに余裕ができて、前向きになれるかもね」と声をかけてくれた。診断書を書いてもらい、地元の八頭町役場に申請。20年5月に手帳が交付された。
吃音は治らずとも、堂々と
「自分の生き様を文章として残したい」と大阪文学学校(大阪市)に通い始めたのは、その数カ月前だった。「同じ悩みを持つ人たちへの何らかのヒントになれば」との願いからだ。
手帳を持つ意味について入江さんは「お守りみたいなもの」と話す。「以前は吃音にとらわれて生きてきたけど、その経緯も含めて自分に自信が持てるようになった」。吃音は今も治ってはいない。でも、堂々とどもれるようになったように感じている。
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