2025.02.18
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 旅する僧たちの土木事業 ~作善(さぜん)への継承~ 連載63回 緒方英樹
勧進聖(かんじんひじり)~行基菩薩から重源(ちょうげん)への道
東大寺に安置されているという重源上人坐像は、高齢だが眼光鋭く、口をへの字に結んでいます。この風貌には、13歳で出家後、聖(ひじり)の徒として霊地・霊山を行脚修行、各地を遊行して困難な社会事業を行ってきた筋金が深く刻まれているようです。

古代、都の寺ではほとんどの僧たちが国の安泰のために読経していましたが、民衆の苦悩を取り除くために寺を飛び出す僧が現れました。
奈良元興寺(がんごうじ)の名僧・道登は、行脚の途中、人馬が流されて困っていた人々のため宇治川に橋を架けたと日本霊異記にあります。その宇治橋をさらに架け替えたのが、諸国をめぐって井戸や港をつくり、橋を架けていた法相宗の僧・道昭です。その教えと行動を引き継いだのが弟子の行基でした。彼ら僧たちは、諸国を旅することで民衆の声を聞き、その辛苦や悩みを解決するために橋や道を直し、ため池をつくるなど各地の土木事業を通じて仏の道を説いていったのです。
そうした民衆の苦痛に寄り添って社会活動を展開していた行基に、民衆は「菩薩様」と慕って集まりました。その行動力と求心力に目をつけたのが聖武天皇でした。
奈良時代、聖武天皇は、国家的一大プロジェクトとも言える「東大寺大仏殿」建立のため、民衆の苦痛に寄り添って社会活動を展開していた行基に勧進(かんじん)の役目を依頼します。大がかりな大仏造立には、多大な費用、資材、労働力を必要としましたが、朝廷にはその力が不足していたため、行基の圧倒的な求心力に頼ったと思われます。
勧進とは、寺院の建立や修繕などのために、信者や有志者に説き、その費用を奉納させることをいいいます。そのことにより人々を仏道に導き入れ、善行をなさしめるのが元来の意であったとされています。行基は、東大寺大仏殿を建てる大工事に必要な費用と労力調達のために全国を行脚する勧進の役目を担いました。大仏殿は752(天平勝宝4)年に開眼供養が行われました。
ところが、時を経て東大寺は、大仏が地震で壊れたり(855年)、金堂が治承・寿永の乱(呼称・源平の合戦)で焼けたりしたため(1180年)、鎌倉幕府を開いた源頼朝からの支援を受けて東大寺再建を行ったのが重源です。その時、重源は61歳。当時、無名に等しい僧でした。
なぜ、重源に東大寺復興の大勧進職という重大任務を託されたのでしょうか。
重源は、もともと勧進聖でした。勧進聖とは、寺院に所属せず、各地で遊行・修行しながら、寺を造り、橋を架けるといった社会事業を行うことで人々に信仰の道を説いてきました。そのような作善(さぜん)を施す、すなわち土木の仕事に尽くすことで仏の道に近づくやり方は、菩薩と呼ばれた行基を模範としていたと考えられます。
そして、重源は、高野山や大峯山など険しい山谷で修行後、3度も宋(中国)に渡って仏教建築を学んでいました。南宋で親交を得た人たちの中には、陳和卿(ちんなけい)という仏工のほか建築・土木で最新技術を持った技術者たちが多くいました。さらに、全国の勧進聖ネットワークを擁していた重源の人脈と知識が評価されての大抜擢だったのです。
重源は、東大寺再興という名目の中で、周防(すおう)・播磨・伊賀・摂津など各地に七別所と呼ばれた活動拠点を設け、また、魚住(うおずみ=兵庫県・江井ヶ島)や大輪田(おおわだ=現在の神戸あたり)の港修築費用を盛り込んでいきました。そのあたりは、重源のしたたかさも垣間見られます。
東大寺が再建されて、大仏殿が完成したのは1190(建久元)年、重源70歳の時でした。
重源、行基の狭山池を改修 ~「利他」の継承~
82歳で重源は、尊敬する行基が改修した狭山池が長い年月の間に老朽化、水漏れして農民たちが困っていたため、石積みの吐き出し口を備えた堤に造り直したとされます。
このことは、重源の自伝とも言われる「南無阿弥陀仏作善集」により知られていましたが、1988年から始まった狭山池ダム化工事で発見された「重源狭山池改修碑」の碑文により1202(建仁2)年に重源が狭山池を改修したことが確かなものとなったのです。碑には、狭山池改修の契機やその内容が刻まれています。

重源は、石の通水管と調節口六段を設置したとされますが、大正・昭和初年そして平成の狭山池改修で、樋管に古墳時代(6世紀後半~7世紀前半)の石棺を転用していることが判明しています。2014年、「大阪府狭山池出土木樋(下層東樋2基分・上層東樋1基分・中樋取水部材34点・西樋取水部材17点)」と「重源狭山池改修碑(1基)」は国の重要文化財に指定されました。これらの文化財は、狭山池博物館の常設展示室で保存展示されています。
また、「南無阿弥陀仏作善集」とは、重源の作善(さぜん=人がこの世にあって善事を行うこと)の事績を集めたもので、写経ほか仏教関係の業績だけでなく、造寺や造仏、鋳鐘、かんがい用池堤の築造、道路・橋梁の修理・架設といった、みずからの作善活動の事跡を備忘録風に書き上げた記録で、東京大学史料編纂所に現蔵される重要文化財となっています。

また、重源による狭山池改修碑文には、身分に関係なく多くの人が狭山池修復工事に従事したとあり、その後に次の文が記されています。
「これは、名誉と利益のためではなく、ひとえに公益のためです。願わくば、仏の教えと縁を結び、この世の一切の生物をひとしく幸せにされることを、謹んで申し上げます」
道昭や行基が進めた他の人に尽くす「利他」の心が、長い歳月を経ても重源の作善に継承されていたことに深く心を打たれます。