2025.06.02
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 海を埋める 新たな国土と未来を創った浅野総一郎 連載66回 緒方英樹
海を埋め立てた男
海の「干拓」も「埋め立て」も、新しい土地を人工的につくるという意味では同じですが、つくり方が異なります。前回の吉田新田のように遠浅の海を堤防で囲み、その中の海を干上がらせた「干拓」に対し、海の「埋め立て」は、遠浅の海面を土砂で埋め立てて新たな国土を造ることです。といっても、海を埋めるというのは途方もないことです。自然の法則で動き続けている波打ち際を想像してみてください。戯れにいくら土を盛っても寄せては返す波にすぐ飲み込まれてしまうことでしょう。
ところが、神奈川県の鶴見と川崎の沿岸地帯、その広大な海面を埋め立てて京浜工業地帯の基礎をつくった人物こそ、明治から昭和初期にかけて駆け抜けた実業家・浅野総一郎です。
アメリカの黒船が浦賀沖に到着した1848(嘉永元)年、越中(現在の富山県氷見市)に生まれた浅野は、若い時分は何をやっても挫折続きで、「惣一郎(後に総一郎)ではなく損一郎だ」などと言われていましたが、明治維新直後の混乱期に故郷を飛び出し、薪炭や廃物コークス利用など奇抜な発想と抜群の実行力で頭角を現して、官を辞していた渋沢栄一に認められたのは28歳の時でした。

浅野総一郎(1848~1930年)=東亜建設工業株式会社提供
遠浅の砂州と広がる野原
1688(元禄元)年、徳川家康によって架けられた六郷大橋が大洪水で流されて以来、江戸の人々は「六郷の渡し」で多摩川を渡り、保土ヶ谷、戸塚へ抜けるしかありませんでした。
当時、人々の眼前に広がる川崎から鶴見にかけての沿岸部は、遠浅に堆積した砂州(さす)と、茅(かや)や葦(あし)の野原が無辺に続く荒れ地でした。
そして、江戸時代末期、小規模の新田開発は行われていましたが、維新直後の1871 (明治4)年、廃藩置県により武蔵の国から神奈川県となった川崎付近は、いまだに遠浅の干潟が海岸一帯に広がっていました。

六郷の渡しは、東海道が六郷川(多摩川)を越えるときに利用された渡船場で、渡船は1874年の佐内橋架橋まで180年ほど続いた
長い江戸時代が幕引き、明治新政府による殖産興業をスローガンにかかげた日本の近代化は、官の主導で始まりました。その過程で、浅野は官から民間への払い下げによるセメント事業を発展させて、70以上の大事業を手がけて一大財閥を築き、「セメント王」、「九転十起の男」などと呼ばれて成功をおさめました。
では、なぜ、浅野は「海を埋める」という至難の大プロジェクトに挑んだのでしょうか。
浅野総一郎、埋立事業の原点とは
1896(明治29)年、浅野は金融王と言われた安田財閥の安田善次郎らと共同で東洋汽船株式会社を設立して海運業に進出します。そこで浅野は、太平洋航路の選定と汽船発注のため、欧米の港湾都市へ視察出張します。
各国の港湾で目にした光景が、浅野の常識をくつがえします。
日本の近海で行き来していた艀(はしけ)がどこにもないのです。艀とは、大型船と陸との間を往復して貨物や乗客を運ぶエンジンのない台船です。横浜では、荷下ろしされた物資が当然のように小型の艀船で東京まで運搬され、さらに、東京湾は遠浅の砂州になっていて大型船は4キロも先の沖合にしか停泊できない状況でした。ところが視察した欧米では、大豆や小麦などを満載して港に入った船が、岸壁でベルトコンベアに荷を載せて列車と連絡していました。
浅野はこうした先進国との違いを見て、大きな危機感を抱くとともに、天啓を得たと思われます。日本を豊かな近代国家にするには、巨大な船が横づけできる港が不可欠であると。東京湾と横浜港の一体化を進めて、その中間に臨海工業地帯を建設するという壮大なプロジェクト。政府の力を待たずに民営で進めると決意したのです。
帰国後、そのための埋立事業を進めるために浅野は、神奈川と東京の間を5回、実地に踏査しています。ところが、漁業権の問題や地元民との調整などから神奈川県への事業許可、東京府への品川湾埋立許可がなかなか下りず、1905(明治38)年に提出した東京築港計画も却下されます。それでも工夫を重ね、1908(明治41)年、鶴見川河口から川崎地先の田島村(現・川崎市)までの埋め立て計画を出しますが空転して進みません。その時、浅野は60歳。
そこで、理解者の安田善次郎、渋沢栄一といった財界人の後援を得て、事業主体となる「鶴見埋立組合」を設立します。そして、1913(大正2)年、浅野側が地元民の漁場補償費を支払うことを条件に神奈川県から埋め立ての許可が出ます。いよいよ動き出したのです。
第一次世界大戦が勃発した1914(大正3)年、鶴見埋立組合は鶴見埋築株式会社となり、1920(大正9)年、鶴見埋築を吸収して東京湾埋立株式会社となります(現在の東亜建設工業株式会社の前身)。東京湾も視野に入れた埋立事業拡大という大きな意図が見えます。
では、どのように工事は進んでいったのでしょうか。
主役は、サンドポンプ浚渫船
浚渫(しゅんせつ)船とは、河川や港湾などで水底の土砂を掘りさらう作業船を言います。東京湾埋立株式会社には、イギリスから輸入した第一号ポンプ船が日本初で導入されていました。

ポンプ式浚渫船 第一号船(1913年)=東亜建設工業株式会社提供
ところが、第一号船の能力と土質がうまく適合しなかったため、国産電動ポンプ船の開発に乗り出します。その中心となったのは、東京帝国大学土木工学科卒の新鋭技術者・関毅(せき・はたす)でした。関の恩師・廣井勇は、小樽築港工事で浅野セメントを使用して以来、浅野と懇意にしていました。鶴見・川崎地先海面の埋め立てについても浅野は廣井に意見を求めてお墨付きをもらっていました。その廣井から推薦を受けたのが関でした。
関たち技術者が開発した自前の国産によるサンドポンプは、多量の土砂を短期間に能率よく運搬していきました。そのポンプ船による浚渫は、カッターで掘り崩した海底の土砂を海水とともに吸い込んで、パイプを通して2000㍍以上離れた陸上に土砂を運びました。
先進的モデルとなった総合地域開発
そして1928(昭和3)年、約15年の歳月をかけた約150万坪の埋め立て事業は、防波堤や道路、橋梁などの施設も整備されて完成しました。
浅野は、全国の有望な工業地帯の主要港湾にも、次々と埋立計画を出願していたと言います。それほどに、日本の近代化にとって臨海工業地帯の開発がきわめて重要だと認識していたのでしょう。物流と従業員通勤のため鶴見臨港鉄道が開業した1930(昭和5)年、最後までベンチャー精神旺盛だった浅野は、83歳で生涯を閉じました。
浅野総一郎から始まった埋め立ては、京浜工業地帯の中核を形成しただけでなく、その後の臨海工業地帯建設の先進的モデルとなったのです。
浅野が埋め立てた場所の地名やJR鶴見線の駅名に、ゆかりの人々の名前が残されています。川崎区浅野町や浅野駅、浅野家の家紋である扇から扇町、扇町駅。浅野を物心両面で支え続けた安田善次郎から鶴見区安善町や安善駅などです。

安善町全景=東亜建設工業株式会社提供
鶴見港見学記録(「港湾」昭和5年10月号)に、次のような記述があります。
「日清製粉会社は米国、カナダ、豪州等より積載せる一万トンの本船を工場の岸壁に横づけとなし、真空吸上機によりて一時間に三百トンの陸揚げをなし、これを機械によりて製粉し・・・・・・」。
浅野が没した1930 年(昭和5)年、まさに、浅野が思い描いた光景が既に広がっていたのです。
京浜工業地帯の生みの親と言われる浅野総一郎ですが、浅野が大胆に構想した東京湾改造計画は幻(まぼろし)と化してしまいました。しかし、その幻は、はかなく泡と消えてしまったのでしょうか。
浅野が、当時東京市長の後藤新平に何度も提示した「東京湾改造計画図」からは、巨大都市東京の経済基盤を支えて世界に誇る大都市に変貌させるという願いがマグマのごとく溶融してあり、その意味を現在に語りかけているように思えます。
2023年、市政専門図書館webサイトに無料公開された「後藤新平関係文書」にある「東京湾埋立計画平面図」。それらを読み解き『幻の東京湾改造計画と後藤新平』と題した伏見岳人氏(東北大学大学院法学研究科教授)の特別寄稿(後藤・安田記念東京都市研究所発行「都市問題」2024年12月号)が、幻の計画が示す意味と価値を問いかけています。