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2026.01.30

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 司馬遼太郎作品にみる〝土木の風景〟 連載71回 緒方英樹

稲作とセットで始まった農業土木

 司馬遼太郎作品は、小説だけでなく多数の随筆・紀行文など世代を超えて多くの人々に読み継がれています。NHK大河ドラマ原作となった作品数は「竜馬がゆく」など6作品を数えるほどの人気です。

 その司馬遼太郎、実は、「農業土木」という分野に深い関心を寄せ、農業土木に関する含蓄のある記述をしています。農業土木とは、農業における土地や労働の生産性を高めることを主な目的とする土木の仕事のことです。

 「この国のかたち一」(文春文庫)には次のような下りがあります。

 「山からの水を受けて水平に張り水するために、田という農業土木的な受け皿が必要なのである。また田から水を抜くために、排水溝をつくらねばならず、要するに稲作は伝来のときから農業土木がセットになっていた」

水田域と集落が一体となった農耕文化初期の遺構が確認されている登呂遺跡の水田と竪穴状平地建物

 さらに、「近代以前にあっては、治山治水と農業土木こそ世を救う道だったといわざるをえない」(「街道をゆく」26嵯峨散歩 仙台・石巻)と述べています。

 確かに、日本の農業は、人々が集団で生活を営み、農耕を始めた時点から、土木と深く結びついてきたのですが、換言すれば、あらゆる技術史の中で土木技術が最も古いとされるのは、人類が集団で生活を営むための必要不可欠な前提であったと言えるでしょう。

 古来、日本の土木は、天変地異の災害から人々の暮らしを守り、国土に手を加えながら人々の暮らしを豊かなものにする経験と技術、人材育成を積み重ねてきました。その過程で培われた治山治水、そして稲作とセットで始まった農業土木に司馬氏は注目しています。

 そして司馬氏は、農業土木をひろめた歴史上の技術者として加藤清正、武田信玄、野中兼山を「街道をゆく」シリーズで紹介しています。

 「領国に善政をほどこした者としては織豊期では丹波における明智光秀、近江における石田三成があるが、清正の場合はかれらよりすぐれていた点は、土木行政の面であった。かれはその独特の工法で農業土木をおこし、その治績はながく肥後平野に恩恵を残したといわれる」(「街道をゆく」3陸奥のみち・肥薩のみちほか)。

 明智光秀は、丹波の福知山築城(京都府福知山市)において、堤防を築いて由良川(ゆらがわ)の流れを変えて城下町をつくりました。由良川の一角にある明智藪(あけちやぶ)と呼ばれる堤防づくりは、水害対策の一環として造営したと伝えられています。

水と戦い、大地を潤した加藤清正

 さらに、土木行政の面で高く評価した加藤清正の治績がながく肥後平野に恩恵を残したといわれるのは、はるか古代から水との戦いがあった球磨川流域(熊本県)において顕著です。

 「おそろしか川ですよ」

 八代から球磨川をさかのぼった司馬氏は、そう言って時代を振り返る地元の人の言葉から、幾度もの洪水に見舞われてきた球磨川に思いを馳せています。

 日本三大急流の一つに数えられる球磨川において清正は、南北朝時代の後半には既にあったと言われる木の杭(くい)による堰(せき)を強固な石堰に改修したりして利水と治水の大事業を行いました。清正が名づけたとされるこの「遥拝堰(ようはいせき)」は、八代市渡町の球磨川に築いたもので、球磨川の急な流れを弱める役目を果たしました。川の中央から下流へ八の字形に自然石を組む治水と水利を兼ねた堰で、昭和の河川事業で姿を消してしまいますが、2019年、50年ぶりに親水空間として再生しました。

 清正が隈本(くまもと)城に入った1588(天正16)年、肥後の領地は乱世で荒れていました。そこでは、菊池川、白川、緑川、球磨川という四大河川が洪水を起こし、人家や田畑に甚大な被害を与えていたのです。清正は、治水工事と新田開発をセットで行っていきました。

 清正が次々と開いた水田によって、大量の水が地下へも供給されて良質の地下水を育んでいきました。水道水源を地下水でまかなうという世界でも珍しい地下水都市の基盤をつくったと言えるでしょう。

異能の人・空海を風景の中において考える

 司馬氏が、「日本史上初めての普遍的天才」と評した空海。生前の司馬遼太郎が「もっとも好きな自作」と呼んだ「空海の風景」(中公文庫、上下巻)では、独特の歴史解釈、想像力を軸に描かれた風景がダイナミックに展開されています。

徳島県小松島市田野町にある四国八十八箇所 第十八番札所の恩山寺。弘法大師像

 空海と言えば、周知の通り、高野山を開いた真言宗の開祖・弘法大師です。

 空海は、満濃池の修復と拡張において、現代でも通用する効果的なダム建設技術工法を用いたとされます。それまで日本では見られなかった画期的な工法でした。しかし、空海は、一体いつどこでそのような土木技術と総合的な都市計画を身につけたのでしょうか。

 空海の土木で瞠目すべきは、ため池修築という大土木工事を通じて、農民たちに暮らしを整える土木の役割を説き、農業指導までおこなったことです。民衆のためにハードだけでなくソフトを重視する考え方は、行基の「利他行」にも通底します。

香川県仲多度郡まんのう町にある日本最大の灌漑用のため池・満濃池(まんのういけ)。821年(弘仁12年)、空海が築池別当として派遣されて修築したとされる

 幼い頃から「貴物(とふともの)」と呼ばれるほど才気あふれた空海は、讃岐(香川県)という一地方から中央の難関大学へ進み、 明経(みょうぎょう)科という儒学を研究する学科行政コースに入ります。政府エリート高官への道が開けたはずでしたが、地域と一族の期待を一身に背負った希望の星は、なぜか直ぐに中退してしまいます。そして、国に公認されない私度僧となって山岳修行に入りますが、この時から唐に渡るまで10年ほどの消息は謎です。

 司馬氏は、「空海の風景」を中央公論に連載する前の予告で、次のように書いています。「人間を風景の中に置いて考える場合、現代は風景として煩瑣(はんさ)すぎ、歴史は風景としておおらかで、人間の輪郭がやや見やすいような気がします」(1972年12月)。

 その風景の中で、空海という貴物の若い頃はどのように見えていたのでしょうか。

 たとえば、「空海の風景」のなかで司馬氏は、空海が18歳で大学の官吏になるに適した明経科に入ったのではあるが、後に唐に渡って長安の人々をおどろかせた天賦の語学力について書いています。空海が子供の頃に育った環境において異音、異語が使われていたという風景を想像しているのです。

謎の修業時代、青春の煩悶(はんもん)

 空海が遣唐使の一員として渡った唐の都、長安は世界的な大都市、多様な文化の中心でした。エネルギッシュに長安を動き回り、関係者を訪ねる無名の留学僧・空海は、既に梵語(サンスクリット語)に通じ、本家の能筆家をも唸らせる書芸をはじめ多彩な能力と学識を身につけていたと言われています。不明の修業時代に空海は、仏教の経典を梵語で読んでいたと見るべきでしょうか。

 あるいは、空海が山林修行の場としていた吉野の金峯山(きんぷせん)では、一切の教法の文義(文意)を記憶する修行を繰り返していたことによるものなのか。さらには、奈良時代以前から山林修行のメッカと言われていた金峯山や四国の石鎚山(いしづちやま)、奈良大安寺など出入りしていたインドや中国から来た僧たちとの交流が天賦の語学力を高めさせたのか。などといった風景を想像していくと、空海が24歳の時、自らをモデルとして著したとされる戯曲風の自著「三教指帰(さんごうしき)」にある次の一文に驚かされます。

 「地球などはいつまであるかわからない。大洋もなるほど広いが、水が涸(か)れて消え、かぎりなく広がっていると思われるこの大地も、どろどろになって消えてしまう」

 若き日の空海は、青春の煩悶の中、どのような風景を想像していたのでしょうか。

 異能であるがゆえに見通した杞憂(きゆう)であることを願うしかありません。

緒方英樹(おがた・ひでき)土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ。著書「大地を拓く」(理工図書)で2022年度土木学会出版文化賞を受賞