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2026.03.03

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 大地震大津波に遭遇した独眼竜政宗とスペイン人探検家 連載72回 緒方英樹

東日本大震災津波と貞観地震津波

 2011年3月の東日本大震災から15年の年月が流れ、今、その記録や教訓を次世代に伝えて継承するさまざまな取り組みが行われています。

 古来、地震・噴火・津波などの自然災害にさいなまれてきた日本列島ですが、特に東北地方の太平洋岸は、幾度もの大地震と大津波の惨禍に見舞われてきました。

 平安時代に編さんされた歴史書「日本三代実録」に、貞観11年5月26日(869年7月13日)に東北地方の太平洋沖で発生した貞観地震(じょうがんじしん)について次のような記述があります。平安時代の民を大きく揺さぶった貞観の大津波です。

 「陸奥の国で大地震があり、そのあと激しい波が川を遡上(そじょう)して、たちまち城下に達し、海岸から、数十~百里の先まで涯も知れず水となり、原野も道路もすべて大海原と化してしまった」

 陸奥国の城とは、宮城県の多賀城ではないかといわれています。原野も道もすべて海となった城下が現在の仙台平野だとするならば、東日本大震災の大津波を想起させます。

貞観地震による津波の際の様子をうたった「末の松山」 多賀城市八幡2丁目8番28号

 多賀城にある宝国寺の裏山には、津波が奇跡的に届かなかったと物語る「末の松山」(多賀城市八幡)があります。「決して波が超えることがない地」として、この歌枕は平安の昔から数多くの和歌に詠まれてきました。

慶長三陸地震津波、伊達政宗領地が被災、その記録に「津波」という言葉が

  東日本大震災後、歴史上の津波被害として注目されているのが、その400年前の1611年12月2日に発生したとされる「慶長三陸地震」における津波被害です。

 その震源や地震規模については諸説ありますが、その地震津波は東北地方太平洋沿岸に大きな被害をもたらしたことから「慶長奥州地震津波」ともいわれ始めています。

仙台藩祖・伊達政宗公が築城した仙台城(青葉城)の跡地に建つ伊達政宗公騎馬像

 この地震津波についての記録資料の一つとして、「駿府政事録」(すんぷせいじろく)があります。駿府城における江戸幕府の政治録・日記です。家康の側近だった後藤庄三郎光次か、儒学者の林羅山が書いたという説もありますが不明です。

 この徳川家康の行動を記録した史料に、仙台藩主・伊達政宗の領内に大きな津波が押し寄せて沿岸の人家がことごとく流失し、溺死者が5000人ほどいたとあります。そして、記録ではそれを「津波」という言葉で記しているのです。

 この「駿府政事録」には、伊達政宗の使者からの伝聞として、次のような報告が記されています。

 伊達政宗の家来は、政宗が食べたいという魚を捕るため漁村に行って釣り船を出すように命じた。ところが、漁師たちは今日の海は色が異常で天気もよくないと言う。それを聞いて家来の1人は諦めたが、もう1人は政宗の命に背くことはできないと強引に船を出させた。すると数キロ沖に出たところで大津波に襲われた。

 地震が起きた時、政宗は高台にあって築城中の仙台城にいた可能性があります。

 各地の同時代史料にも、宮古市では家屋が1軒も残らず流失[宮古由来記]、津軽石で150人が死亡[盛合家文書]、田老村では波高15~20メートルで田老平坦部、小港、下摂待地区など田老地域が全滅[田老町史津波編(田老町津波誌)]、仙台藩の正史とされる「貞山公治家記録」では、領内で「1783人溺死し、牛馬85匹溺死」などの記述があり、総じて、東日本大震災に匹敵するようなすさまじい津波であったことが想像されます。

大津波を体験したスペイン人探検家がいた!

 慶長三陸地震津波を体験して、その経験を記録したスペイン人探検家がいました。

 地震津波が発生した1611年から1613年まで日本に滞在していたセバスティアン・ビスカイノです。ではなぜ、ビスカイノは被災地にいたのでしょうか。

 ビスカイノは、新スペイン(現在のメキシコ)総督からルソン島から新スペインへ向かうために重要な日本沿岸測量を命じられて、徳川家康に許可を得たばかりでした。そして、江戸で伊達政宗の知遇を得たビスカイノ測量隊は、政宗の支援を得て三陸海岸を測量中の1611年12月2日、越喜来(おきらい、現在の岩手県大船渡市三陸町越喜来)に着きます。すると、越喜来の沿岸で村人たちが大声で叫びながら山へ向かって逃げていくのを目にします。その時の様子を、ビスカイノは次のように記録しています。

 「海水が1ピカ(約3.89メートル)を超える高さになっていた。これはこの土地で発生した大地震によってもたらされたものだった。津波は1時間も続き、非常に強力な勢いで流れ込み、村落、家々、稲の束を水浸しにした」

セバスティアン・ビスカイノ — 16世紀のスペイン人、アメリカ大陸、太平洋、東アジアの探検家。17世紀の版画

 ビスカイノによれば高波は3回も押し寄せたということです。こうした体験を記した「ビスカイノ報告」は、当時の様子を知る貴重な資料といえるでしょう。

 その後、ビスカイノは新スペイン総督から命じられていた優先順位の高かったであろう金銀島探検に向かいます。金銀島探検とは、日本近海には金や銀が豊富に産出されるという伝説上の「金島」「銀島」を見つけ出すための探検のことです。しかし、ビスカイノは宝島を発見することはできないまま、嵐で船は難破してしまいます。

慶長大地震と慶長遣欧使節

 そこで、帰国できないで難渋していたビスカイノに手を差し伸べたのが、伊達政宗でした。慶長大地震と大津波からの被災地復興に立ち向かう最中、新スペインとの通商をもくろんでいた政宗は、ノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに送る外交使節一行とともにビスカイノを帰国させています。

支倉常長の肖像 キリスト教洗礼名はドン・ヒリッポ・フランシスコ・ハセクラ

 地震から2年後の1613年に派遣された慶長遣欧使節の副使に選ばれた政宗の家臣・支倉常長(はせくらつねなが)は、仙台藩内で建造された洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ」で太平洋を渡りました。

 結果的に交渉は成功しませんでしたが、支倉常長一行は、日本人で初めて太平洋・大西洋の横断に成功、初めてヨーロッパの国へ赴き外交交渉をしたことから、支倉常長は「日本初の外交官」と呼ばれています。

緒方英樹(おがた・ひでき) 土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ  著書「大地を拓く」(理工図書)で2022年度土木学会出版文化賞を受賞