2026.04.23
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 水の記憶と継承、そして祈り ~円空の仏が語りかけるもの~ 連載73回 緒方英樹
洪水神話
旧約聖書「創世記」に記される「ノアの方舟(はこぶね)」は、かつて大洪水が地上を襲い、生き延びた者が人類になったという洪水神話の一つです。もし、この神話が、およそ5000年前に古代メソポタミアで起こったとされる大洪水から生み出されたと想像するならば、忘れられない恐怖体験が事実を伝説に変えて後世に伝えている原点なのかもしれません。

妖怪伝承と〝口伝えの碑〟
古来、大災害を繰り返し経験してきた日本では、その経験を伝えるものとして石碑、伝説、記録、地名、歌、儀礼など有形無形でさまざまなものがあります。その中で、人から人へ、世代や時代を超えて語り継がれてきた言い伝えや伝説があります。
民俗学ではこうした伝承のことを〝口碑(こうひ)〟と呼びます。この口碑伝承は、ある意味、口伝えの碑ともいえるでしょう。過去の災害を物語にして語り継ぐ口碑の例として、妖怪伝承があります。
例えば、江戸時代、岩手県北上川流域の各所に残る「白髭水(しらひげみず)」という伝承があります。北上川は、昔から水の恵みだけでなく大洪水を繰り返し起こしていました。この大洪水を白髭水と呼ぶようになったという伝承です。〝地震の後に海の向こうから白い髭をたくわえた老人が波に乗ってやって来る〟
このように、近代以前の人々は、洪水や津波、水難事故など人間の理解を超える不可解な現象を〝妖怪〟の仕業として分かりやすく物語化することで、災害への戒めとして語り継いできたと思われます。
微笑みか怒りか、円空の仏像
災害は、いつの時代でも被災した体験者に深い悲しみをもたらすだけでなく、時として、想像を超えるような力を与えるのかもしれません。
江戸時代前期、円空(えんくう)という修験僧の話です。円空は、生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定されていて、現在までに5400体余りの像が各所で発見されています。

松尾芭蕉と同じ時代を過ごした円空は、謎に包まれた人物です。江戸時代後期に刊行された「近世畸人伝(きんせいきじんでん)」によると、出身地は、美濃国竹が鼻(現・岐阜県羽島市竹鼻町)で、幼いころに出家して、23歳で寺院を離れ富士山、白山で修行を行ったとあります。ただし、記録された伝記に空白が多く、生誕地は岐阜県下の羽島市説や郡上郡美並村付近説などありますが確たる定説はないようです。
円空が彫った仏像、いわゆる円空仏は、1本の木から彫り出される一木(いちぼく)造りが多く、厳しい山岳修行の中で技を磨き、下山した時は三十路(みそじ・30歳)を超えていました。その後、遊行僧(ゆぎょうそう)として北海道から青森県、三重県、奈良県など畿内に及び、その至る所に円空の彫った円空仏が残っています。遊行僧とは、特定の寺院に定住せず、布教や修行のために各地を巡り歩く僧侶のことをいいます。

円空の生きた時代は、華やかな江戸元禄時代です。なぜ、円空は満ち足りた時代に、無駄をそぎ落とした生き方を選び、その辺りの木を拾って、あるいは山の立木になたを振るって、またあるいは小指ほどの小さな像を彫って限りない簡素を目指していたのでしょうか。
なたで荒割りして、1、2本のノミで一気呵成(いっきかせい)に仕上げたと思われる円空仏は、ねじれていたり、節くれだったり、それぞれ木の持つ本性を生かして奔放であるのですが、その仏たちの表情はなぜ優しく微笑んでいたり、憤怒の形相を秘めているように見えるのでしょうか。何が彼をそこまで駆り立てたのでしょうか。
水害の記憶、そして母への祈り
円空が5歳のころの風景を、伝説や記録から想像してみると、次のような光景が浮かんできます。
そこは岐阜に近い農村です。雨は何日も降り続いていて、ゴウゴウと川の濁流の音が軒まで聞こえてきます。やがて村の半鐘が鳴り響き、土手に囲まれた輪中を大水害が襲います。
大水は土手を壊し、水は母子の住む美濃側に流れ込んだに違いありません。なぜなら、川の向こう側は徳川御三家の領地で土手が高くしてあったからです。みるみる洪水が押し寄せて、母は胸まで川につかりながら円空を土手に押し上げますが、瞬く間に母は長良川の濁流にのまれてしまいました。
円空伝説では、洪水で亡くなった母の菩提(ぼだい)を弔うため円空は出家したといわれています。そして円空は、母の供養のため12万体の仏像を刻むことを祈願して山岳修行に入ります。
日本各地に残る円空仏。特に、愛知県内、岐阜県内に数多く残されていて、その微笑と憤怒に込められた像には、母への尽きない思いと、水害の記憶が秘められていると感じざるを得ません。なぜなら、1695年、円空が64歳で自ら塚を作って入定(にゅうじょう・高僧の死)したとされる場所こそ、母を失った長良川のほとりであったからです。
もちろん、円空の一身を投げうった造仏は、母の死を機に発した願いではあったのでしょうが、やがてその行為は、説法を説くのではなく、黙々と仏像を彫り続けることで病や災害に苦しむ人たちを救うための祈りへと昇華されていったことでしょう。
その証の一つとして、円空が何度も訪れたとされる荒子観音寺(名古屋市中川区)所蔵の「浄海雑記」によると、円空は「行基僧正の人と為(な)りを慕ひ」、「自ら十二万の仏躯を彫刻するの大願」 を抱いていたと伝えています。自分のことよりも他の人の幸せに尽くす利他行(りたぎょう)により、日本各地のインフラを整えていった行基を模範としていた円空。
円空の作仏は、行基を慕う利他行でもあったのだろうと深く首肯します。
