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2026.08.12

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 龍の棲(す)み処(か)~郷里の苦難に立ち向かった人たち~ 連載75回 緒方英樹

満濃池の龍神と、空海

 香川県まんのう町にある日本最大級のため池・満濃池(まんのういけ)には、古くから龍が棲むという伝承があります。雨が少なく渇水被害に苦しめられていた農民たちにとって、龍は、決壊して百姓を泣かせる水の主か、あるいは雲を呼び、雨を恵んでくれる祈りであったのでしょうか。

満濃池の貯水量は、オリンピックプールの6160杯分に相当する1540万立方メートル。周囲は約20キロ、水深約22メートル、灌漑(かんがい)面積3000ヘクタールの「世界かんがい施設遺産」

 讃岐平野では古くから米づくりが行われていましたが、平安時代はじめの818年に大洪水で満濃池が決壊します。朝廷の役人・築池使が工事を行いましたが、大きな池の水圧に耐える築堤技術も大がかりな人手もなくて行き詰まったままになっていました。

 農民をはじめ、官民こぞってのラブコールに応え、その龍の棲み処に立ち向かったのは、唐の国から帰り、高野山を開いた真言宗の開祖・弘法大師こと空海です。

 そして821年、空海に築池別当(池をつくる最高責任者)の勅命が下ります。

空海は、唐に渡って1年半、中国密教の頂点にあった恵果(けいか)にその能力を見いだされ、恵果は、惜しげもなく持てる知識体系を空海に注ぎ込んだ

 築池使が技術的に行き詰まったのは、谷全体を池とする堤防工事でした。その難関に対して、空海は次の三つの設計を考案しました。

①強い水圧にも耐えるアーチ構造の堤防
②水際に木の杭を打ち、枝葉をくくりつけて水の勢いを弱め、堤防を補強する「しがらみ」の採用
③洪水時に池から溢れる水を外に流して調整、堤防の決壊を防ぐ余水吐きの建設

 空海は、満濃池の修復と拡張において、現代でも通用する効果的なダム建設技術工法を用いたのです。

筑後川のヤマタノオロチと、戦国武将・成富兵庫茂安

 佐賀県と福岡県の間を流れる九州一長い筑後川。その大河がいったん暴れ出すと260もの支流がヤマタノオロチのようにうねり、のたうち回り、川の流域は海のように溢れました。この大河に立ち向かったのが、加藤清正も評価した戦国武将・成富兵庫茂安(なりどみひょうごしげやす)です。大坂夏の陣により戦国時代の終焉(しゅうえん)を読んだ茂安は、佐賀の用水事業に大いに尽くしたことから「治水の神様」と呼ばれています。

 茂安は、郷里・肥前のために筑後川の右岸に長さ12キロの堤防をつくります。この千栗(ちりく)の堤防は内と外の二重構造にして、その間に遊水地をつくって堤防機能を強化しました。完成まで12年の年月を要したのは、農民の課役を考慮して工事を急がなかったためといわれています。関ケ原の戦いなどで猛者と知られた侍大将は、まともな堤防もない無防備地帯にふらりと帰ってきて、地域住民のために誠意をつくしました。

江戸時代の功績を称える茂安公築堤功績碑と現在の筑後川堤防

斐伊川のヤマタノオロチと、大梶七兵衛

 斐伊川(ひいがわ)は、「古事記」(712年成立)の「八岐大蛇(やまたのおろち)説話」にあるように、古来より氾濫を起こしては流域に多大な被害をもたらし恐れられてきました。 

 この斐伊川から水を引いて、用水だけでなく物資の輸送路にしようと目論(もくろ)んだのは、江戸時代前期の民間土木事業家・大梶七兵衛(おおかじしちべえ)。出雲平野で日本海に面した砂浜に独力で防風林をつくった人物です。

「赤く大きな目をして、一つの胴体に、八つの頭、八つの尾」

 出雲神話に記されたヤマタノオロチは、出雲の斐伊川に例えられて暴れまわりました。この川の上流部は、砂鉄の産地として有名でした。藩政時代には砂鉄採集の「鉄穴(かんな)流し」(※)が行われていたこともあって、多量の土砂が斐伊川下流に流入し、典型的な天井川を形成していました。

 そんなわけで、切られたヤマタノオロチの尾からツルギが出たとか、その血で川が赤く染まる姿がなぞらえられました。「斐伊川誌」(建設省出雲工事事務所1995)によると、1621年から1866年までの245年間に、62回の洪水があったということです。

(※)鉄穴流し : 砂鉄を多く含む山を崩して土砂を水路に落とし、それを流下させることで比重の軽い土砂と重い砂鉄を分離する方法

 出雲平野の西、日本海に面した荒木浜は強い海風と流砂にさいなまれた無人の荒野だったため、何人もの先人がこの低湿地を耕地に開拓しようと試みましたが、失敗していました。その試みとは、不毛の砂地を新しい耕地にするため、砂浜に木を植えることでした。

 七兵衛が、この難題にチャレンジしたのは50歳を過ぎてからのことでした。そして、七兵衛による荒木浜開拓の第一段階は、日本海から吹きつける強風を防ぐため、約1.5キロ、幅約1キロの砂地に防風林をつくることでした。さらに、七兵衛の壮大な構想は、斐伊川から荒木浜まで掘り抜き、農業用水だけでなく、米を中心とした物資輸送の舟運にも生かすというものでした。

島根県宍道湖、中海と斐伊川河口。現在の島根県東部にあたる出雲(いずも)は、日本海から湿った気流が島根半島の山地に吹きつけ上昇して雲が湧き出ることから名づけられたという。

 しかし、またも七兵衛の前に、砂が立ちはだかります。約10キロの水路を掘り進めますが、元来砂地であるため、水が吸い込まれて流れないのです。

 そこで七兵衛は、用水路の水漏れを防ぐ方策を練り上げます。粘土を張りつけたムシロ数万枚を川床に敷き詰め、水路の両側にも粘土を張りつけたことが、1986年の改修工事で判明しました。その粘土は陶土の産地・大津地区から運んだと推察されます。

 七兵衛が私財を投じたこの高瀬川開削は、やがて藩の直営普請として多くの人が動員され、5里(19.8キロ)以内から集まる人に1日米1升5合、5里以遠からの人には1日米1升7合が支給されたことが、松江藩覚書(松江市歴史叢書)にあります。貧民救済の公共事業でもあったことがうかがえます。

 1687年に完成した高瀬川の水は、荒木浜開拓地約90ヘクタールを灌漑しただけでなく、流域の村々に用水を供給しました。

現在も出雲市内を流れる高瀬川=飯國信之撮影

緒方英樹(おがた・ひでき) 土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ  著書「大地を拓く」(理工図書)で2022年度土木学会出版文化賞を受賞