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2026.11.05

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ  印旛沼(いんばぬま)~農民たちの夢と願い、そして三度の挑戦~ 連載77回 緒方英樹

 2026年9月13日から14日、台風25号により治水計画を上回る大雨によって印旛沼の堤防4カ所が決壊し、周辺の土地は広範囲に氾濫(はんらん)しました。1969(昭和44)年まで続いた印旛沼の干拓や治水事業から長い歳月を経て初めての大惨事となりました。 そもそも印旛沼の開発はなぜ、どのような背景で行われてきたのでしょうか。

香取海と印旛沼

 千葉県の北部に位置する印旛沼は、疏水百選に選定されている利根川水系の湖沼です。その流域は、千葉市、船橋市、成田市、佐倉市、八千代市、鎌ケ谷市、四街道市、八街市、印西市、白井市、富里市、酒々井町、栄町の11市2町にわたっています。

西から望む北印旛沼 印旛沼は千葉県北部の利根川下流南岸に位置する利根川水系の湖沼

 常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌「常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)によると、古代から江戸時代前までは、利根川下流右岸の丘陵に鎮座する香取神宮の目前まで「香取海(かとりのうみ)」と呼ばれる内海が広がっていたとあります。つまり、江戸時代以前、利根川から霞ケ浦一帯は「香取海」と呼ばれる大きな内海が広がっていたことが想像されます。印旛沼は、香取海の入り江の一つだったといわれています。

 その広大な香取海は、東北地方および常陸国と他地域との間の物流経路を担っていたため、平安時代にはそれを奪い合う「平将門の乱」などが繰り広げられていました。そして、それまで江戸湾(今の東京湾)へ流れていた利根川の流れを大きく東に移して、太平洋沿岸の銚子から海に注ぐように流路を変えるという利根川東遷(とねがわとうせん)という大それた事業を計画、着手したのが江戸幕府の初代征夷大将軍・徳川家康です。

利根川の流れを東へ移し変える江戸幕府一大プロジェクトを計画した徳川家康 狩野寿信筆

なぜ、利根川東遷はおこなわれたのか

 家康が江戸に入った1590(天正18)年、家康にとって一番の心配事は、利根川によって江戸が洪水に襲われることでした。利根川は関東平野を乱れながら南へ下り、荒川や入間川と合流して江戸湾に注いでいました。そのため、当時、低湿地帯であった江戸は、たえず洪水の危機にさらされていたのです。そして、家康がもくろんだ利根川東遷(とねがわとうせん)とは、利根川の流れを銚子の方向に向かわせようとする河道変更です。

 その目的は、江戸のまちの水害を防ぎ、湿地帯に新しく農地をつくり、舟運を開いて東北と関東との交通・輸送体系を確立して物を運びやすくするための大河川事業、あるいは、東北の雄、伊達政宗に対する関東防衛策だったとも推測されています。

 そして、家康は、関東郡代に伊奈忠次(いな・ただつぐ)を任命、その後、伊奈忠治、忠克と続く伊奈氏一族は、利根川の付け替えや荒川に堤防を築いていく大事業を進めます。

 この利根川の流れを少しずつ東へ移して、河口を東京湾から太平洋に変えるという大工事は、1594(文禄3)年にはじまり、家康から4代将軍家綱までの間、江戸の国家プロジェクトとしておよそ60年以上続きました。もし、都市プランナーとして天賦の才を発揮した徳川家康による利根川東遷が実行されなかったら、今でもずっと利根川が東京湾に注いでいたら、百万都市江戸は実現しなかったかもしれないし、現在の東京は、まったく異なる姿、暮らしになっていたのかもしれません。

地域農民たちによる三度の挑戦

 一方、利根川東遷事業後、いっそうの水害に悩まされてきた印旛沼周辺の村々は、大雨が振るたびに印旛沼の水があふれ出しました。利根川の洪水は頻繁に起こり、それが印旛沼に逆流し、沼の外に流れる川は利根川にそそぐ長門川しかなかったので、田植えが済んだころに大水が押し寄せたりしました。濁流に家が流されることも度々でした。

 そこで、地域の人々は、印旛沼の水を江戸湾に流して水害を防ぎ、新田を開発するという難題に立ち向かうしかありませんでした。この途方もない挑戦は、享保期(1716~36)、安永・天明期(1772~89)、天保期(1830~44)の三度にわたって実施されました。

 享保期、八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として奨励した新田開発をきっかけにして、印旛沼の新田開発を幕府に願い出たのは平戸村の農民代表である名主・染谷源右衛門(そめやげんえもん)を中心とした農民たちでした。

 今から302年前の享保期1724年、源右衛門は一念発起。印旛沼の水を江戸湾に流すため、川底や台地を掘りさげる約17キロメートルの大水路工事を幕府に嘆願します。幕府は普請を見積もる役人として、勘定奉行下役の井沢為永(ためなが)らを派遣し、堀割筋の長さと面積、人足数と費用などを調査させました。幕府から調査に来た役人の見積もりは工事従事者が延べ約1507万人、幕府から約6000両の貸付で工事が実施されました。源右衛門たちは井沢の調査結果にもとづき、自ら鍬(くわ)やモッコ、鋤(すき)などを持ち寄って工事を進めます。

 しかし、2年間続いた掘割り工事は、屈折した掘割り筋に水を落とす技術などうまく進まず、源右衛門ら農民たちが多額の負債を抱えるほど資金面でも行き詰まり、中止に追い込まれてしまいます。
 
 そして、安永・天明期の開発は、江戸時代中期の老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)の時代、新田開発を目的に進められます。この時も、中心となって開発工事を進めたのは千葉郡島田村(今の八千代市)の名主、治郎兵衛(じろべえ)と印旛郡草深新田(今の印西市)の名主、平左衛門(へいざえもん)でした。

 二人が幕府の地方役人に提出した計画書には、印旛沼から江戸湾まで水路(掘割り)をつくり、利根川の水が流れ出ないように締切るという干拓工事が記されていました。莫大(ばくだい)な工事費用は商人による資金調達も視野に入れて開発は着々と進められていきました。

 ところが、全行程の3分の2が進捗していた段階で、天明3年に浅間山が噴火、その火山灰が大量に利根川に流入、さらに3年後の大雨で利根川一帯が大水害に見舞われて工事どころではなくなります。さらに、工事を推進していた田沼意次の失脚が工事の中止を決定づけてしまいます。

 さらに、3度目の開発は、天保の改革をおこなった老中・水野忠邦(ただくに)によって1843年から進められますが、この時も中心となって工事を進めたのは、島田村(今の八千代市)の名主、治郎兵衛(じろべえ)でした。

 工事の試掘現場へ視察に来た幕府役人の中には農政家・二宮尊徳も入っていたということです。当時、普請役格となって幕府に召し抱えられた尊徳は、印旛沼開拓・利根川利水に向けての提案を行いました(内村鑑三の「代表的日本人」より)。

 しかし、結局、それは水野忠邦の目に触れることもなく採用されませんでした。

生涯を通して農村復興に力を注いだ二宮尊徳

 そして、1843(天保14)年、水野忠邦が国政の不手際により罷免されると、現場責任者も罷免され、大名たちのお手伝い普請も任務を解かれて、翌年、工事は中止となります。

 印旛沼 掘ったかいなし 水の(水野)泡
 庶民が詠んだ川柳は、辛辣(しんらつ)でした。

 やがて、印旛沼開発の計画と工事は、明治以降も紆余曲折を繰り返しながら進められます。明治政府がオランダから招いたファン・ドールンやデ・レイケに利根川の改修計画を依頼、デ・レイケに印旛沼干拓の設計・経費概算を依頼するなどしています。

 そして、1947年には、国が平戸川と花見川をつなぐ工事が行われ、昭和40年代になると国の印旛沼開発事業によって大和田に排水機場がつくられ、印旛沼は東京湾とつながったのです。1969(昭和44)年に完成した干拓事業によってその面積は約半分に減り、現在のような北印旛沼・西印旛沼に分かれて、印旛沼の北沼と西沼をつなぐ印旛捷水路(いんばしょうすいろ)という人工水路になりました。印旛沼は、現在、上水道、工業用水及び農業用水の貴重な水源として、また水産、レジャー、親水、そして観光など多方面にわたって利用されています。

 印旛沼開発を最初に試みた染谷源右衛門たち農民の夢と願いは、現在に綿々と生き続けていることを忘れてはならないでしょう。

土木史的思考のススメ

 近年、地球全体で異常気象といわれる事態が深刻化しています。温暖化による夏場の気温上昇や、水害の多発などにより世界全体で甚大な被害が起きていることは周知のとおりです。異常はもはや日常になりつつあるともいえるでしょう。

 それでもなお、土木事業はやり直しが難しいという「不可逆性」を有していることも歴史は教えてくれています。2015年(第31回)の日本国際賞を受賞された河川工学者の高橋裕氏(1927~2021)は、「一度その地域に展開された土木事業は、その地域に長く影響を与えるのみならず、それ以後の土木事業に作用する」と著書「現代日本土木史」で指摘されています。

 現在も復旧作業が進められている印旛沼水害の歴史的因果を軽々に論じることは早計ですが、過去の多くの土木事業の成果と経緯を考察して現在と未来に生かすことこそ、高橋裕氏の提唱された「土木史的思考」の眼目なのだと首肯します。

緒方英樹(おがた・ひでき) 土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ  著書「大地を拓く」(理工図書)で2022年度土木学会出版文化賞を受賞