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2020.04.09

渡来人が築いた日本初の堤防「茨田堤」 緒方英樹 連載2 

古来より日本人を悩ませてきた水害 いかに自然と対応してきたか

多数の古文書に残る「霖雨」と「洪水」

『明治以前日本水害史年表』(高木勇夫)によると、奈良時代から平安時代にかけて「霖雨(りんう)大水」「連雨洪水」といった記録が多く、古来より水害は、日本人にとって身近で大きな心配事の一つであったようです。また、『続日本後記』によると、滝のような豪雨と強風、そして霖雨(長雨)が平安京を襲ったとの記述があります。現在に照らして言うなら、1カ月分の雨が1日で降ったり、その後も続いた長雨で都の人々がひたすら家屋の下で身を細め、おびえた様子がうかがえます。


 今から1200年ほど前の話です。古代の民間伝承に「神木を伐ると水害が起きる」という語り伝えがあったようです。これは、4~7世紀ごろに朝鮮・中国から日本に移住してきた渡来人たちのDNAと経験が広めた「森林と水との関係」への示唆かもしれません。例えば、古墳時代以来、日本各地にネットワークを拡大していた秦人(はだびと)と呼ばれた渡来人の影響が土木工事にも見えます。


 日本で初めての河川工事とされるのは、記録に残るものとして大阪府寝屋川市付近に築かれた茨田堤(まんだのつつみ)が知られます。大雨による洪水や高潮対策のため、313年頃から仁徳天皇が淀川工事に取りかかり、日本書紀によると「河内平野における水害を防ぎ、開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤の築造を行った」と記されています。築堤工事では、どうしても二つの堤が切れてしまうため、秦人の優れた土木技術を用いて難工事を完成させています。

日本最古の堤防と推定される「茨田堤」の一部=大阪府門真市宮野町で

寺を出て、民衆の苦難に立ち向かった僧侶たち

 世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば

 奈良時代初期、万葉集巻第五に収められた山上憶良の貧窮問答歌です。私たちはどんなに日々がつらくても、鳥ではないのでどこにも逃げられないという切羽詰まった民衆の心を詠んでいます。民衆とは、国の安泰という目的のために翻弄された農民たちのことです。


 538年に仏教が伝来すると、聖徳太子の指示であちこちに寺が建てられるようになります。そして、大化の改新で国に権力が集まるようになると、寺や宮殿は華美をきわめるようになるのですが、一方で、民衆には厳しい税が課せられました。租〔米〕・庸〔労役または布〕・調〔布または産物〕という形で国に納める税の負担は、民の生活を苦しめます。労役で働く人は全国から集められた農民です。天皇のいる宮殿の建設、都のまちづくり、防人(軍隊)の通る道づくりなど土木工事に駆り出される農民たちはすっかり疲弊しきっていました。役人は無税。寺院で国家のために祈る僧には、特別の手当てが与えられていました。


 寺の外で民が苦しんでいるのに、寺にいていいのか。外に出て助けることこそ仏の道ではないのか。そう決心して、民衆の中に飛び込んだ僧が現れました。


 646年、奈良元興寺(がんごうじ)の僧・道登(どうとう)は、洪水で人馬が流されて困っていたため、京都・宇治川に宇治橋を架けたと「日本霊異記」という説話集にあります。「続日本紀」には、僧・道昭(どうしょう)が架け直したとも記されています。飛鳥時代にかけられた日本最古の橋と言われ、「瀬田の唐橋」、「山崎橋」と共に、日本三古橋の一つです。架橋されて後、奈良・京都・滋賀を結ぶ水陸交通の要衝となりました。

京都府宇治市にかかる宇治橋


 道昭は、遣唐使の一員として入唐し、玄奘三蔵(西遊記で有名な三蔵法師のモデル)に師事した名僧です。晩年になって道昭は、天下を周遊して、道の傍らに井戸を掘り、各地の渡し場の船を造り、橋を架けました。淀川の山崎橋も道昭が架けたとされます。


 当時、民衆の救済という仏の道に従って行動した僧侶たちですが、なぜ、インフラ整備や災害対策としての土木事業をおこなったのでしょうか。そうした土木技術をどのように会得していたのでしょうか。その謎を解くヒントは、道昭の弟子として諸国を回った行基が教えてくれます。

喜光寺(奈良市)に安置される行基像。悩み苦しむ人々のために力を尽くしたとされる=奈良市で

スーパー僧侶、行基の登場で分かる土木の原点

 師である道昭を日本初の火葬で送った行基は僧の位を捨て、国の援助もなしに、橋や港、道路や用水路などを次々と造っていきます。行基の土木技術は、もちろん、道昭に従って回る中で会得したと思われますが、その出自に注目してみます。


 まず、道昭は、渡来人系の船連(ふねのむらじ)の家系に生まれ、一族は水運造船技術に通じていたと思われます。行基の父は高志才智(こしのさいち)、母は古爾比売(こにひめ)。どちらも渡来人系の出自です。特に、父の高志才智は百済から来た王仁(わに)博士の後裔とも言われています。冒頭で述べたように、道昭や行基は、渡来人系の経験や技術を引き継いで応用していったのかもしれません。


 洪水で決壊した堤防工事などで、自ら現場の先頭に立つ僧侶など誰も見たことがありません。国は行基が民衆のために行う行動を抑圧しましたが、民衆は深く慕い、行基の周りに続々と集まり、地方豪族たちまでも支援しました。布施屋(ふせや)という農民たちが都に行く途中の簡易宿泊所やため池、用水路などを各地に造っていきます。現在の兵庫県伊丹市中西部に築造した昆陽池(こやいけ)は、地域にたびたび降る大雨と洪水を防ぐために築造したため池です。洪水対策だけでなく、灌漑用水を溜める多目的ダムであり、現在も上水用貯水池として一部用いられています。


 昆陽池をつくった翌年の731年頃、河内の国(大阪)に古くからある狭山池が洪水を繰り返さないように改修したと伝えられています。堤の高さをかさ上げした技術などその詳細は、大阪府立狭山池博物館で体感することができます。 

昆陽池の空中写真。日本列島を模した人工島が見える


 やがて人々は、行基のことを菩薩様と呼ぶようになりました。

 では、なぜ行基は土木事業を率先して行ったのか。仏教では、ほかの人を助ける行いを「利他行(りたぎょう)」と言います。行基たち僧侶は、土木や建設の工事という大きな「利他行」によって人々を救い、自分は仏のような誠実な気持ちで生きたいと願っていたのでしょう。人々もまた、懸命にそうすれば仏の道に近づけると信じていたのだと思います。
 行基たち寺を出て民衆を救済した僧侶の行いに、土木の原点を見てとれます。(鉄建建設経営企画本部広報部、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ長)=毎月第1木曜日更新