2020.04.09
空海の技「満濃池」 清盛の夢「大輪田泊」 緒方英樹 連載3
讃岐平野の寡雨地帯
日本列島には雨のきわめて少ない寡雨(かう)地帯と多雨地帯があります。なかでも香川県の讃岐平野は瀬戸内でも年間降雨量の少ないことで知られています。高松空港から降り立つ飛行機からは、幾つかのため池が見えます。香川県には現在、大小1400ほどのため池がありますが、なぜ、日本一面積の小さい香川県に古来より数多くのため池があるのでしょうか。
かんがい面積3000ヘクタール、日本最大級の貯水量を誇る満濃池
その讃岐平野では古くから米作りが行われていましたが、雨が少なく、大きな河川も少ない。山が低いために、川の水を引くことが難しい。そのためのため池だったのです。なかでも、香川県仲多度郡まんのう町にある満濃池は、日本最大のかんがい用のため池です。大宝年間(701~704年)に讃岐の国守であった道守朝臣(みちもりあそん)が築造したと言われています。2016年に、国際かんがい排水委員会によって、「世界かんがい施設遺産」に四国で初めて選出されました。
「百姓が父母の如く恋い慕う」空海の土木技術
その満濃池は818年に決壊します。朝廷の役人が工事を行いましたが、大きな池の強い水圧に耐える築堤技術も、大がかりな人手もなくて行き詰まっていました。
度重なる干ばつに備え、地元の民衆が期待を込めて待ち望んだのが故郷讃岐の生んだ弘法大師こと空海でした。当時、唐から帰国した空海は、時の人として注目の的でした。遣唐使に従って唐に渡り、中国密教の頂点にあった恵果に認められ、その知識体系を半年近くでマスターし、20年の予定をわずか2年で目的を達し、帰国後は嵯峨天皇即位と時を同じくして動き出し、真言密教確立のため多忙を極めていました。
地元農民は国司を通じて懇願します。国司は朝廷に「百姓が父母の如く恋い慕う」空海にぜひ満濃池修築をと切望したのです。そして、官民こぞってのラブコールに空海は応えます。
満濃池修築と拡張には、空海を工事責任者として、渡来人系技術者集団の土木技術が駆使されたと推測されます。その土木技術の特徴的なこととして、水圧を両側の岩盤で支える堤は、水圧に強い弓形状に湾曲したもので、現在のアーチ式堰堤の創始です。
水の勢いを弱め、堤防を補強する「しがらみ」、池からあふれる水を流して調節する水路「余水吐(よすいは)き」=お手斧岩(ちょうないわ)=を考案するなど、現在でも通用するダム建設技術によって満濃池修築は完成します。電話など情報機器も建設機械もなかった時代の巨大プロジェクトです。
その後、江戸時代に修築・復興され、明治から昭和の時代に拡張された満濃池は、日本で最大級の農業用溜池として現在も機能しています。そして、今年も6月15日、「ゆる」と呼ばれる池の取水栓を抜く「ゆるぬき」行事が行われると、周辺では一斉に田植えが始まります。
“満濃抜いたら牛馬離すな”。付近の村々に残る言い伝えです。
「ゆるぬき」は池の取水栓である「ユル」を抜くことで、讃岐の夏の風物詩となっている
色は匂えど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ
空海がつくったという伝承もある「いろは歌」は無常観を詠っています。平清盛は、その空海と大輪田泊という港でつながっています。
大輪田泊は難波津(なにわづ、大阪港)に船が入る前の船所(港)で、奈良時代から天然の良港でした。平安時代には空海とともに遣唐使として唐に渡った最澄が寄港しており、828年に空海が修築の別当(責任者)となって工事に関わっているのです。
それから340年ほど後、今度は清盛が大輪田泊と関わることになります。清盛が、海運都市として建設しようとした福原(兵庫県神戸市兵庫区あたりか)の眼下に広がっていたであろう港のある場所が大輪田泊です。
神戸市兵庫区切戸町にある十三重の石塔でできた清盛塚(左)と清盛像。兵庫区には清盛ゆかりの史跡が多い
清盛の時代、大輪田泊は風波や川の氾濫で堤防がたびたび壊れました。そこで清盛は、海中に石を沈めて人工島を造り、風や波を防ごうと考えます。ところが、石の島は築いてもすぐに風波で壊れてしまいます。たまらず築島奉行は「これはもう人柱をたてるしかない」と清盛に進言します。首を大きく横に振った清盛は、石に一字ずつ一切経を書いて船に積むと、船ごと海に沈めます。「経の島」(別名・経ヶ島)と呼ばれる由来として伝えられている逸話です。
清盛は、大輪田泊が完成するとすぐに福原に遷都します。それは、清盛が夢に描いた大海原へとつながる貿易拠点都市づくりでした。大病を患っていた清盛でしたが、後白河院ら貴族たちの反対にも動じないほどの勢いがありました。さらに清盛は、大型船の出入りを可能にするため、音戸瀬戸(おんどのせと)の開削や瀬戸内の港づくりなど土木事業に乗り出します。
清盛が瀬戸内海の海運の要衝として切り開いたとされる広島県呉市の音戸瀬戸
清盛の土木 音戸瀬戸
音戸瀬戸とは、大型船の航行を可能にするための水道、すなわち船の通る道です。その道は、平家一族や貴族たちが厳島神社に渡る航路でもありました。堰堤(えんてい)という堤防を築いて内部の海水を排出し、海底を掘削したという説もあり、延べ人員約6万人、工期は約200日とも伝えられます。
しかし、理想都市づくりという夢は半年で消えてしまいます。熱病であっけなく逝った清盛を失った平家は、源平合戦で敗れ、福原も焼失、やがて大輪田泊も時代とともに朽ち果てていきました。
その後、清盛の夢は鎌倉時代になって息を吹き返します。大輪田泊を僧・重源(ちょうげん)が修築、兵庫津と呼ばれた港は、室町時代になると遣明船の発着地として外界に開かれ、江戸時代には瀬戸内海運の拠点となります。その兵庫津も、明治時代を迎えて神戸港に役目を譲るのです。福原を国際的な海運都市にしたいと目論んだ清盛の夢は、世界的な国際貿易港となっていく神戸港に引き継がれ、「経の島」もまたポートアイランドや六甲アイランドとして蘇ったというわけです。
音戸瀬戸もまた現在、瀬戸内海で海上交通の要となっています。その橋の下に清盛塚は建てられ、石垣に囲まれた塚の中央には、供養のために立てられた石碑があります。(鉄建建設経営企画本部広報部、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ長)=毎月第1木曜日更新