2020.08.21
超難読「一口」に苦難の歴史 谷川彰英 連載4
干拓された巨椋池
今から70~80年ほど前まで、京都の南に「巨椋(おぐら)池」という巨大な池があった。池とはいっても、東西4㌔、南北3㌔、周囲16㌔、面積は約800ヘクタールというから立派な「湖」であった。中国古来の「四神相応」の思想によれば、左(東)に流水(青龍)、右(西)に大道(白虎)、前(南)に窪地(朱雀)、後ろ(北)に丘陵(玄武)がある地勢が都を定める理想であるとされ、まさに平安京はその条件を満たしているところから都として定められた。
桂川(左)、宇治川(中央)、木津川(右)の合流付近。かつて、巨椋池という巨大な池があった
巨椋池は平安京の南に位置する「朱雀」に相当する湖水だったが、この池には京都からの桂川、琵琶湖から唯一流れ来る宇治川、そして奈良県境からの木津川が流れ込む水害常習地でもあった。この三川のうち最も重要な川は宇治川で、滋賀県内では「瀬田川」と呼ばれ、京都府では「宇治川」、さらに大阪府に入ると「淀川」と呼ばれている。
豊臣秀吉はこの宇治川に注目し、伏見城を築いた際、宇治川に堤を設けて外濠代わりにした。この宇治川の整備によって、秀吉は大坂城と伏見城を水運で結ぶことに成功し、さらに大坂を水害から守るための遊水池として巨椋池を利用した。
巨椋池は干拓され、現在は広い耕地となり、高速道が走る
遊水池である以上、ちょっとした雨でも水害は避けられない。明治に入ってからも水害を繰り返してきたために、政府は我が国最初の国営干拓地に指定して、1933(昭和8)年から41年にかけて巨椋池の水を排して一大水田地帯を実現した。例えていえば、巨大な湖水から水を抜いて、大きな洗面器のような空間を作り、そこに水田を造成したのである。
台風によって巨椋池が再現!?
ところが、自然災害は容赦なくこの地に襲いかかった。1953(昭和28)年9月25日、台風13号によって近畿・東海地方は大きな被害を受けた。豪雨のため淀川が満水となり、木津川、桂川が宇治川へ逆流し、午後9時半、宇治川の左岸が決壊し、御牧(みまき)、佐山両村は水没してしまった。御牧村と佐山村は翌54年に合併し、久御山町(くみやまちょう)となるので、現在の町全体が水没したことになる。
1953年9月の台風13号によって水浸しになった宇治川水域。決壊した堤防を埋めるため、地域住民らによって土のう作りが行われた(一口決壊口付近)
両村の浸水の深さは翌26日午前11時の記録があり、御牧村の低地では5㍍以上に及んだという。いわば空になった洗面器に水が溜まった状態になり、水が引くまでには1カ月の期間がかかった。一度なくなった巨椋池が「再現」されたという皮肉な現象に見舞われることになった。
久御山町東一口地区の家並み。写真の道はかつてあった巨椋池の自然堤防の尾根にできた道だ。自治会の看板には、ひらがながふられていた(左下の写真)
その久御山町に「一口(いもあらい)」という超難解な地名がある。現在でも「東一口」地区と「西一口」地区の名が残されているが、中でも「東一口」地区は後鳥羽上皇の時代(1180~1239)に特権的な漁業権を下賜され、巨椋池の7割を占有する中核的な漁業集落であったという。東一口地区は、京阪電車淀駅からタクシーで数分のところにある。高さ数メートルの自然堤防の上に古い街並みが1300㍍も続く。その奥まった一角に巨椋池漁業の取りまとめ役を務めていた大庄屋の旧山田家の住宅がある。
「一口」と書いて、なぜ「いもあらい」と読むのか。そもそも、それが何を意味するのかについては昔から多くの論議が交わされてきたが、現在は「いも」は「疱瘡」を意味し、「あらい」は「祓い」を意味するというのが通説になっている。
山田家の住宅からほど近い住宅街の中に「稲荷大明神」という小さな社がある。ここには平安時代の文人・小野(おのの)篁(たかむら)にまつわる伝承が残されている。
小野篁が隠岐に流罪になって船を出したところ、嵐にあった。その時、「君は類まれな人物だから、必ず帰ってくるであろう。しかし、疱瘡を病めば一命が危ない。我が像を祀っていれば難を避けられよう」というお告げがあったのだという。帰ってきた篁はこの像を祀ってこの地に稲荷明神を置いたという伝えがある。水害常習地である一口地区が疱瘡とどのような関係にあったかは不明だが、「疱瘡」という言葉はすでに平安時代に確認されており、この病気が水害によって感染拡大されると考えられていた可能性は高い。
「いもあらい」は一般には「芋洗」と書かれ、集落への入り口に差し掛かる境界点に位置する坂道などにつけられることが多いが、ここでは「一口」と書かれている。さまざまな解釈が可能だが、私は桂川、宇治川、木津川の三川がこの「一口」に集中していることに由来すると解している。それ以外に考えようがない。
JR御茶ノ水駅からほど近い東京都千代田区神田駿河台1にある太田姫稲荷神社
東京にもある「一口」
ところが、この一口、東京にも存在する。JR御茶ノ水駅の聖橋口を出て秋葉原方面へ下りる坂を「淡路坂」と呼んでいるが、この淡路坂が、かつては「一口坂」と呼ばれていた。その坂の上に大きな椋の木が立っているが、その幹に「太田姫神社本宮」というお札が貼られている。つまり、かつてはこの地に太田姫神社があったという意味である。
江戸を開いた太田道灌の最愛の姫が重い疱瘡にかかった際、道灌は京都の一口稲荷神社のことを聞き、娘の回復を祈願するために江戸に勧請したという。時に1457(長禄元)年のことであったという。この太田姫神社は1931(昭和6)年、総武線の拡充工事のため、小川町交差点の裏手に遷され太田姫稲荷神社として今日に至っている。京都の水害常習地であった「一口」の歴史を東京の今に伝えるスポットである。(作家・筑波大名誉教授)=毎月第3木曜日更新