ソーシャルアクションラボ

2020.08.02

水防を制する者、戦国バトルを制す 緒方英樹 連載5

 古代・中世の水防

 「今は昔、美濃の国(岐阜県)に因幡河(長良川の古称)という大きな河があった」。

『今昔物語集』26巻第3話に、美濃国因幡いなば川で起きた洪水の話が出てきます。

 その因幡川は、「雨降りて水いづる時には、はかり無く出る河也」という暴れ川でした。大雨が降ると決まって氾濫するので、川の沿岸に住む人々は洪水に起こったときに退避するため、家屋の天井を頑丈に作り、板張りの床のように木材で堅固にして、洪水時にはその上に登り、そこで調理や食事をしていた様子を描いています。平安期の話です。

 「つし」と呼ばれる丈の低い上階が、この時代、水害時の備えとして造られていたようですが、この話はさらに続き、数十年に1度という大洪水によって、大多数の家は流され、多くの人が水死した顛末が書かれています。その説話に堤防は出てきませんが、人々は家屋を頑丈にするしか想定外の大洪水に対処するすべがなかったようです。

 同じように洪水に悩まされていた荘園・美濃国大井おおいのしょう(今の大垣市)で、寺社や居住地に竹を植えていたのではないかという記述が、『日本災害史』(北原糸子編・吉川弘文館)にあります。荘園とは、奈良時代の終わり頃から鎌倉時代まで続いた農地や農村を含む地域のことで、有力貴族などが支配していました。鎌倉期にあった大井荘は、奈良時代から室町時代にかけて美濃国にあった荘園で、鎌倉時代から室町時代にかけて衰退していきます。その原因の一つは、年貢の重圧や洪水など相次いだ洪水による農民たちの逃散です。その水害から守るために、家々や集落の周りに竹林を造成して水防林としていたことが論述されています。

 竹は、根や地下茎がからみあって密生するために、地盤を強くし水の侵食作用から川岸を守る働きがあります。土砂崩れや地震対策にも有効だと言われています。やがて、この地域も輪中が成立するようになると水防のため集落に竹が多く植えられていきます。

左から木曽川、長良川、揖斐川。細い堤防で仕切られ、伊勢湾に注ぐ=岐阜県海津町の木曽三川公園で

 輪中とは、読んで字のごとく輪の中のことです。鎌倉時代、中州の周りに堤防をつくることから始まりました。水害から守るため、集落や耕地の周囲を堤防で囲んだ地域、輪中に住む人たちは、昔から堤防をつくったり洪水の時に助け合ったりして協力しました。木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)下流に点在する濃尾平野の輪中が有名です。

 そして、輪中では母屋よりも高い所に水屋を建てて、洪水の時に避難したり、米やみそなどの食料を蓄えたりしていました。ここに住む人たち自身の手でつくられた輪中の歴史は、洪水との闘いの歴史でもありました。人々は、輪中堤に囲まれた水防共同体で暮らし続けたのです。

金華山(稲葉山)の頂上に建つ岐阜城天守閣からは長良川と岐阜市街を一望できる

 斎藤道三とその嫡男・義龍との間で美濃国の長良川にて行われた長良川の戦い。現在は、日本三大清流の一つと言われる長良川は、古来より幾度となく甚大な災害に見舞われてきました。御囲堤、輪中、薩摩義士による宝暦治水など洪水との闘いの歴史があり、オランダ人技師デ・レイケらによる三川分流工事が完成して、現在の木曽三川の原形がつくられました。

 堤防の横に木を植える

 古来より、日本人は度重なる自然災害と向き合いながら、何とかその災禍を弱めるために自然の身近な素材を使った知恵を駆使してきました。例えば、堤防の横に木を植えるということがあります。この行為には、長年の身に染みた経験から、「堤防は、いくら高く、強固につくっても、大洪水は防げない」という考え方による防御が見えます。現在に通じる姿勢です。

山梨県甲斐市の信玄堤公園にある水害防備林(水防林)

 武田信玄が山梨の笛吹川左岸に築造した水害防備林(水防林)である万力林には、マツ、クヌギ、コナラ、フジ、クワなどがあり、そのうちアカメヤナギ、ヤブフバキ、クワの3本がそれぞれ市指定天然記念物に指定されていると現地解説板に記されています。「万人の力を合わせ強固な堤を造り守っていく」という願いから名づけられた水防林は現在、万力公園として整備されています。また、信玄堤では洪水氾濫に備えて、ケヤキ、エノキ、タケなどを主体とした水防林が釜無川東岸の堤防に植えられました。

 それら水害防備林は、雨水の急激な流入、土砂の流下を防ぎ、堤防と背後の土地を水害被害から何としても守りたいという先人たちの願いが込められているのです。

 徳政令と天道思想

 甲斐国(山梨県)の河口湖地方を中心とした富士山北麓地域の年代記『勝山記』の永禄2(1559)年から同4年までの記録に、次のような記述があります。

 「疫病はやり、悉く人多く死すこと限りなく候……村郷あき申す事、限りなく候」 

 「村郷あき申す」とは、度々の洪水や飢饉、病気などで多くの村人が少なくなって村が空く、つまり、村人が村からいなくなるとです。村人が領地からいなくなると、戦国武将は戦うこともできなくなります。戦国時代とは、災害、飢饉、戦乱が日常化していた時代です。先述の鎌倉時代から室町時代にかけて衰退した荘園に属していた農民たちは、台頭してきた戦国武将との関係において、ある意味、死にものぐるいで自らの立場を主張していきます。

 永禄3年の出来事を見てみると、2月30日、北条氏政が牧之郷(静岡県伊豆市)に徳政令を発布しています。徳政令とは、代替わりを名目に、農民たちの税である借りた銭や米などをリセットすることです。北条氏政の父・北条氏康が家督をついだころ、大地震や風水害が続き、北条領は危機的状況に陥っていました。耕作をする百姓が土地を捨て、逃げ出す状況が生じていた。すなわち、「村が空く」寸前だったのです。氏康の悩みは、天文18(1549)年に起きた巨大地震の対策と、この頃相次いだ猛烈な飢饉・凶作にあえぐ百姓からの山のような嘆願でした。この圧力に悶えた氏康は、農村疲弊の責任を取って隠居します。そして、やむなく家督を子の氏政に譲り、氏政は、農民の訴えを取り入れて借銭・借米を免除したというわけです。

 いかに戦国の猛者といえども、災害、飢饉や飢餓などによる深刻な領国の危機を救えなくして、民衆の支持を得られなかった。すなわち、天道てんどう(天と地)に対応・感応できるもののみが、大地の支配を行えるという天道思想が農民たちにも浸透していた時代、支配者と被支配者との関係はきわめてナイーブに揺れていたのでしょう。

 農民と戦国大名との「共有」(コミュニケーション)を保つことも、し烈な戦国バトルを勝ち抜く大きな要素だったのだろうと想像します。(鉄建建設企画経営本部広報部、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ長)=毎月第1木曜日更新