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2024.08.01

能登の記憶、北海道で 被災者が亡き父の母校で防災教室

 最大震度7を観測した能登半島地震は1日、発生から7カ月を迎えた。地震で両親を亡くした石川県能美市の会社員、清水宏紀さん(47)が7月、北海道出身の父親の母校、登別市立幌別西小学校を訪れ、防災教室を開いた。「1月1日」の経験をもとに「備え」の大切さを訴えた。犠牲者の命の重さをかみしめながら、「『忘れないこと』が大切だと思う。震災の風化を少しでも防ぎたい」と語った。

 幌別西小の体育館であった防災教室には、小学4~6年約120人が参加した。清水さんは、実家のある石川県輪島市の倒壊した建物や火災の跡地をスクリーンに映し、当時の状況や現在の被災地の様子を説明した。

 また、思い入れのある写真も紹介した。震災から数カ月がたったある日に撮影した、輪島市朝市に咲いていた一輪の花だった。「震災を乗り越えて咲き誇ったこの花のように、輪島も能登も復興してほしい」

 地震発生時のことは7カ月たった今も、鮮明に覚えている。能美市の自宅から輪島市の実家に帰省していた清水さんは、両親とともに被災した。皆で避難するため、近くの駐車場へ車を取りに行っている間に実家が倒壊。両親が家屋の下敷きになった。助けだそうと必死になったが、どうすることもできなかった。鳴り響く津波の警報と迫り来る火の海を前に避難するしか選択肢がなかった。

 翌朝、実家の焼け跡からは2人の遺体が見つかった。だが、身元が確認できなかった。信じたくないが、両親だろうと思った。「どうしたら助けられたのか」。自問自答する日が続いた。けれど、落ち込んでいた気持ちを少しずつ整理した。両親のように被害に遭うケースをなくすため、教訓を伝えたいという思いを抱くようになった。

 今回の防災教室は、亡くなった父親、博章さん(73)の同級生からの依頼がきっかけだった。快諾した。父親の故郷へ足を運んだのは、約20年ぶりだった。

 子どもたちを前に、震災から7カ月がたった今も、被災地の倒壊した建物のがれきは路上に散乱したままだと報告した。復興が「なかなか進まない」と感じ、「忘れられてしまうのではないか」という不安がある。「『見捨てられる』と思っている被災者もいる。仕方のないことかもしれないが、メディアが取り上げる頻度も減っている。少しでも風化に歯止めをかけたい」と強調した。

 博章さんは1950年、5人兄弟の次男として登別市で生まれた。学生時代は部活動でバスケットボールに明け暮れ、成績も優秀だった。行動力とリーダーシップがあり、多くの同級生から慕われていたという。講演中、父親の少年時代が目に浮かんだ。

 大人になってから妻、きくゑさん(75)の実家で、輪島塗の職人への道を歩み始めた。養成所へ通って努力を重ね、蒔絵(まきえ)職人になった。82年に母校の幌別西小の開校30周年を記念し、輪島塗の校章を学校に贈呈した。40年以上がたった今も学校の玄関に飾られている。

 冬になると、幌別西小時代の思い出をよく口にしたという博章さん。「水をまいて、凍った運動場でスケートをしたんだ」と懐かしそうに話していたことを覚えている。きっと「後輩」たちに同じ苦しみを経験してほしくないはずだ。だから、伝えたい。「震災は多くの人の命を奪う。その恐ろしさを知って、万が一のために備える重要性をわかってもらえたらうれしい」と声に力を込めた。【金将来】

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