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2020.08.21

関西きっての洪水常習地帯だった「ハナテン」 谷川彰英 連載6

大坂はかつて「小坂」と呼ばれていた

 「江戸の八百八町」に対して、大阪では「浪華の八百八橋」と言われる。それほど大阪には橋が多いということだが、それはとりもなおさず大阪が古来、日本を代表する商業都市であったことによる。大阪は全国から多くの物資が集まる巨大なマーケットであり、それらの物資は船で運ばれ、取引された。そのために、海に直結する川や運河や堀が張り巡らされたのである。

 大阪はもともと「小坂(おさか)」と呼ばれていた。「大きな坂」ではなく「小さな坂」しかない土地だったのである。「小坂」では何だから「大坂」に変えたが、「坂」は「土に返る」、つまり「死」をイメージさせるということで、江戸時代後半から「大阪」という文字が使われるようになったという歴史的経緯がある。

 その「小坂」がどこの坂を指していたかというと、今の大阪城から天王寺にかけての台地につながる坂であった。古代においては、今の天王寺から大阪城につながる台地が海に突き出しており、その先端は「浪速(なみはや)の渡し」と呼ばれる海上交通の要地だった。この「浪速」は「難波」「浪華」とも書かれ、大阪を象徴する地名となっていった。言い換えれば大阪は商業都市であったとともに、水難の都市でもあったのである。

 この浪速の渡しから東一帯のエリアは生駒山に至るまで、古代においては内海で、多くの河川が流入していたことから「河内(かわち)国」と呼ばれてきた。

難読地名「放出」の意味

 古来、内海だった河内一帯は江戸時代に新田開発され、一面広大な水田地帯と化した。明治時代の古地図を見ると、大阪城の北に東から「寝屋川」が流れ込み、その周辺に「網島」「東野田」「川越」「鴫野(しぎの)」など低湿地帯特有の地名が点在しているが、その極めつけが「放出」である。北は寝屋川から南は長瀬川に連なる集落で、周囲は全て水田で囲まれていた。

JR放出駅前の鉄道唱歌の碑

 「放出」は全国的に見ても難読地名の一つだが、関西人には馴染みのある地名である。それは1975(昭和50)年に「ハナテン中古車センター」なるテレビのCMが流されたことがきっかけになっている。

 この由来については、俗説としか言いようもないものもある。例えば、「天の叢雲(むらくも)の剣」を盗んで新羅に逃走しようとした僧道行がここに漂着して剣を放り出したという説や、古来この地に牧が置かれ牛馬を放し飼いにしていたことに由来するなどという説もあるが、いずれも根拠に乏しい。

 今日定説となっているのは、沼沢地から水を「放ち出す」ところから付いたという説である。ここには寝屋川、長瀬川など幾つもの河川が流入して大きな沼沢をつくっていた。そこに集まる水を放ち出さないと危険なため、その出口としてこの「放出」が活用されたと見ていいだろう。

 問題は「出」をなぜ「てん」と読むようになったかである。「出」は「で」と読み、「日の出」「人出」のように、ある地点を指している。「放出」は「水を放ち出す地点」といった意味から、「地点」の「点」が残ったと考えることができる。

明治18年にあった淀川の大洪水を伝える当時の大阪毎日新聞(現在の毎日新聞)。「淀川本流、支流各所で堤防破損、決壊し死傷者多数」と伝えている

たびたび洪水に見舞われた放出の今昔

 大阪府の淀川以東のエリアは旧河内国に当たり、河川の洪水には特に弱い地域であった。この地を襲った歴史的な洪水が1885(明治18)年6月と7月の「淀川洪水」と呼ばれるもので、02(享和2)年の淀川洪水に対して「明治大洪水」とも言われる。

 明治の大洪水では、6月の洪水は淀川が決壊したものの、寝屋川は決壊せず、放出を含む寝屋川以南は辛うじて守られた。翌7月の洪水では寝屋川が決壊し、大阪市の東部エリアはかつての河内湖の様相を示すにいたった。

 この2度の洪水により、大阪市の大半の区と守口市、門真市、寝屋川市、枚方市、摂津市、茨木市、高槻市、東大阪市、大東市、四條畷市などが、最大で4㍍の浸水被害を受けたという。被災世帯は当時の大阪府の世帯数の20%にあたる7万2509戸、家屋流失1729戸、死者・行方不明者81人、被災者30万4199人という甚大な被害であった。

JR放出駅周辺では水害被害を食い止めるため第二寝屋川が1968(昭和43)年に建設された。左の写真は建設前の65年に撮影されたJR放出駅周辺の様子。右が建設中の第二寝屋川で左の小さな川が長瀬川。右の写真は完成して半世紀が過ぎた第二寝屋川。線路があった場所はマンションになり、長瀬川はこの写真の奥の場所で第二寝屋川に合流する=大阪市鶴見区放出東3で

 放出はとにかく低地である。満潮の時は市街地よりも川床がかなり高くなるようで、まるで、町は堤防によって保護されているようだ。JR放出駅近くから大阪城を望むことができるが、城周辺の高台だけが高くそびえている。

 放出に最初に取材に行った時、放出駅の近くに小高い丘のようなものが見えた。これは江戸時代に罪人をとらえて監禁した所だと聞いた。その丘の周辺はすべて水で囲まれていたために逃げることができなかったのだという。

 地元の古老によると、戦後でも1972(昭和47)年と76(昭和51)年の2度にわたって寝屋川の氾濫によって床上浸水の被害を受けたと言う。その地形ゆえ、洪水被害の可能性は今も皆無になったとは言えないのかもしれない。(作家・筑波大名誉教授)=毎月第3木曜日更新