2021.08.21
コロナ対策の情報発信地は「コレラ」対策の前線基地だった 谷川彰英
現在の玉川上水(東京都三鷹市)。桜やケヤキなどの緑が市民に潤いを与えている
新宿と玉川上水
新宿は今から300年余り前の1699(元禄12)年に甲州街道沿いに設けられた「新しい宿場」であった。この地一帯が信州高遠藩の内藤家の領地であったことから「内藤新宿」と呼ばれた。現在の新宿御苑は内藤家の屋敷跡である。
現在の甲州街道はJR新宿駅の南口前を走る道路で、とりわけコロナ騒動以後は連日テレビで映し出されている。この甲州街道沿いに、昔は玉川上水という上水が流れていた。玉川上水は多摩郡羽村から多摩川の水を取水し、武蔵野の台地を40㌔余りにわたって開いた上水である。上水の終着点は内藤新宿であり、ちょうど今の新宿御苑の外れに当たる大木戸門地点まで流れていた。この上水は多摩郡の玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が私財を投げ打って造ったもので、1653(承応2)年に着手し、翌年完成している。これは玉川兄弟の偉業として今日に伝えられている。
「コロリ」と呼ばれた「コレラ」
コレラはもともとインドのガンジス川流域の風土病であったが、イギリスによるインドの植民地化により、全世界に広がることになった。コレラは代表的な経口感染症の一つで、感染すると激しい下痢と嘔吐(おうと)を繰り返し脱水状況を引き起こして死に至るという恐ろしい病気である。
我が国で最初にコレラが確認されたのは1822(文政5)年のことである。清から沖縄、九州に上陸したと考えられているが、幸いなことに箱根の関が機能していたために、江戸は感染から免れることになった。だが58(安政5)年に大流行し、江戸の死者数は10万人とも30万人とも言われ、そのすさまじさから人々は「コレラ」を「コロリ」と呼び、「狐狼狸」「虎狼痢」などの漢字が充てられた。
「看(み)よ、東京の虎列刺(コレラ)は日を逐(おう)て益々蔓延(ますますまんえん)の勢(いきおい)あるを」。1886(明治19)年8月7日の東京日日新聞(現在の毎日新聞)は、こういう書き出しで長い警告記事を載せた。左下は当時の疫病専門病院で勤務した看護師の服装。完全武装で治療にあたった
近代上水道の整備へ
明治に入ってもコレラの猛威は衰えることはなかった。感染源は江戸時代に開削された玉川上水などの上水であった。市民は上水の水をそのまま飲用水として利用していたが、上水には多くの汚染物が流れ込み、さらには身投げした死体までもが流れ来るという有様であった。
79(明治12)年の大流行では16万2637人が罹患し、死者数は10万5786人(致死率65%)に上ったという。さらに86年にも10万人を超える死者数を出し、東京だけでも9800人もの犠牲者が出た。「日本におけるコレラ」という論文を残している北里柴三郎は「この流行の原因はイギリスおよびフランス軍艦の寄港に帰せられる」と書いている。また、同年夏には、多摩川上流でコレラ患者の汚物を流したという流言が東京市内に広がるという事態まで招いている。
新宿駅東口前にある馬水槽。写真正面に出ている水は馬や牛、下は犬や猫、背後に出ている水は人が飲むものとされた。かつては浄水場入り口にあったが、移設された
明治政府はこれを機に、近代的な上水道を建設することを決め、中嶋鋭治博士をヨーロッパに派遣し事情を視察させた。その際ロンドン水槽協会から寄贈された馬水槽が現在、新宿駅東口前にある。
そして、浄水場が完成したのが1911(明治44)年のことだった。場所は今の新宿西口の超高層ビル群一帯で、名前はこの地の地名の「淀橋」をとって「淀橋浄水場」とした。東京オリンピックが開催された64(昭和39)年まで利用され、翌年、東村山市に浄水場が移ったことから、新宿西口の副都心としての開発が始まった。
今、「夜の街」新宿で「コロナ」感染者の増加が問題視されているが、新宿はかつて「コレラ」封じ込めに一役買ったシンボルの街であったことを忘れてはならない。(作家・筑波大名誉教授)=毎月第3木曜日更新