ソーシャルアクションラボ

2024.09.15

「これが僕の道」 いじめ、うつ病経験の男性、人を助ける画家になる

 ずっと自分に自信が持てずにいた。人生を終わらせたいと、何度思ったことだろう。子どもの頃のいじめや長時間労働に、うつ病。底なしの闇にはまり込んだ時、いつも絵が自分を引っ張り上げてくれた。

 中西宇仁、37歳。名前は「たかひと」と読む。人の心や気持ちなど、後世に残したいものを伝える「心像(しんぞう)画家」として今、ようやく視界が開けている。「過去は変えられなくても、これからのことは変えられる。僕の姿を通して、そう伝えたい」

 中西さんは東京都調布市で生まれ育った。主には油絵を描く画家である一方、知的障害者のグループホームで生活支援員として働く。勤務前や夜勤明けの時間を創作や絵などの勉強に充てている。

 紆余(うよ)曲折の道のりを歩んできた。

 子どもの頃から自分の意見を言うのが苦手だった。小学校の休み時間は独り、ノートに絵を描くことが多かった。

 高学年になると、粗暴な子のターゲットに。理由もなく殴られる、体当たりされるといった暴力に苦しんだ。

 勉強も運動も苦手。成績表には5段階評価の「1」か「2」が並ぶ。自信を持てたことなどなかった。それでも、喝采を浴びた瞬間があった。

 図工の授業で花の水彩画を描くことになり、細かい花びらを丁寧に描写した。「描き込むほど鮮やかになるのが、気持ち良かった」

 自分だけ授業時間内に終わらず、遅れて提出した。ホームルームで担任が手にした物を見て血の気が引いた。自分の花の絵だった。

 「やめてくれ」。心がざわついた。同級生はどうせ非難するか、無視するだろうから。

 「すごいじゃん!」

 「きれいだね」

 意外な反応が返ってきた。こんな自分でも認めてもらえるんだと思えた。

 だが中学生になると、事態はより深刻になった。読み方が難しい自身の名前をもじった侮辱的なあだ名を付けられ、同じ集団からそこかしこでからかわれた。

 親に心配をかけたくなくてつらい胸の内を明かせず、先生に相談しても取り合ってもらえない。習い事の水泳で疲れ果て、絵を描く楽しさも忘れていた。耐え忍ぶしか選択肢がなく、皮肉にも小中学校とも風邪の時以外は休まなかった。

 「居場所も逃げ場もなかった」

 ゲームに熱を注いだ高校時代からいじめはなくなり、専門学校を経てIT関連の企業に入る。システムエンジニアの仕事だった。

 積極的にコミュニケーションを図るよう努めたが、成果が出せない。上司は「自分の強みを生かせ」と言うけれど、強みなど見いだせなかった。

 早朝出勤と終電帰りが続き、土日も休み無し。頭がぼうっとし、動悸(どうき)など体調不良も続いた。20代半ばでうつ病と診断された。

 心療内科に通う中で、描画や造形などを用いた「アートセラピー」という心理療法に出合う。

 「中西さん、こんな表現もできるんですね」。周囲からの評価が素直にうれしかった。

 セラピーの時間以外も色鉛筆やクレヨンを手にするようになった。退職、転職と落ち着かない期間が続いたが、絵は日常に潤いを与えてくれた。

 1年ほどで社会復帰を果たした中西さんだったが、4年前にうつ病が再発してしまう。思考力や忍耐力が低下する中にあって、光明はやはり「絵」だった。

 「もう、昔の自分には逆戻りしたくない」

 療養期間が明け、筆を手に取り、花瓶に挿した赤いバラの絵を描いた。創作活動を重ねるうちに感情が復活し、揺さぶられる感覚があった。

 絵に救われた経験を、誰かのために生かしたい。昨年秋以降、そんな思いを自身のウェブサイトなどに込めると、さまざまな理由で生きづらさを抱えた人たちから連絡が来るようになった。

 今年10月、中西さんは原画展示に加えてデッサン体験、悩み事相談を受ける絵画イベントを初開催する。自身の体験談も踏まえてアドバイスしていきたいと考えている。なじみの店のマスターや飲み友だちらがイベントの告知などで力を貸してくれている。

 「一歩間違っていたら、僕はもうこの世にいなかった。心の支えになる気持ちを、いろんな人にもらってきました。今度は僕が、画家として人のプラスになりたい」

 今の自分なら、言い切れる。「できるか、できないか、じゃない。これがやっていきたい道なんです」【千脇康平】

    ◇    ◇

 絵画イベントは10月11~24日、東京都府中市宮町1の商業施設「くるる」4階、「Space KURURU」で。原画は花言葉をモチーフにした作品など15点を展示する。入場無料。詳しくは中西さんのウェブサイト(https://takanaka-art.com/)。

関連記事