ソーシャルアクションラボ

2021.04.11

台湾の大地を蘇らせた八田與一 緒方英樹 連載15

「フォルモサの憂い」に挑んだ日本人たち

 今から125年ほど前、日本統治時代(1895~1945年)にあった台湾に数多くの日本人が渡りました。当時、台湾は「フォルモサ・麗しき島」と呼ばれていました。しかし、中国から割譲された当時の台湾は、それまで領有していた清国から「化外(けがい)の地」、すなわち文明の外にある未開地とみなされ、風土病もはびこっていました。そして、台湾は昔も今も、日本と同じく地震だけでなく水害や台風にいくたびも襲われています。

 1898(明治31)年、台湾総督府民政長官として赴任した後藤新平は台湾の人々の暮らしを豊かにする産業を興すと同時に、港湾、鉄道、道路、上下水道など基本的なインフラの整備に総力を結集しました。そのために内地から各分野で最も優れた人材が呼ばれたのです。彼ら、卓越した仕事人たちは植民地という枠を超えて、人々の生活を整え、守り、向上させるため、精一杯の英知と技術、情熱を傾けたのです。

烏山頭ダムを臨む丘に建つ八田與一像。後ろに夫妻の墓がある=台湾台南市で

没後75年余を経てもなお、現地の農民が供養の花を手向け

 そうした近代化政策の後半、一人の青年が台湾に渡りました。石川県河北郡花園村(現・金沢市今町)に生まれた八田與一です。八田は、1910(明治43)年に東京帝国大学工学部土木科で師・広井勇の薫陶を受け、台湾総督府内務局土木課に技手(ぎて)として勤務します。赴任して4年目には技師に昇進、さまざまな工事を経験しながら全島を調査、嘉義(かぎ)と台南をまたぐ広大な荒地、嘉南平原を前にして衝撃を受けます。そこには、洪水、干ばつ、塩害という三重苦に喘いでいた60万人の農民が、15万ヘクタールの及ぶ不毛の大地の上で天を見上げ、かげろうに揺れていました。

 この日本人土木技術者の墓前祭が毎年、台湾南部の山中で催されています。世を去って75年も経つのに、八田技師の命日には、地域農民の子孫たちにより銅像前に供養の花が手向けられてきたのです。かつて、私は献花する古老に、その理由を尋ねてみました。すすると、「私たちは水を飲むとき、その井戸を掘ってくれた人への感謝を末代まで忘れません」。飲水思源(いんすいしげん)という古からの考え方だというのです。

 では、八田技師が「掘った井戸」とはどんなものだったのでしょうか。嘉南平原の三重苦を解決した八田技師の業績を、かいつまんで説明してみましょう。

 その大胆でユニークな方策は、はじめ大風呂敷と皮肉られたようです。八田技師は10年の歳月をかけて、烏山頭(うさんとう)と濁水渓(だくすいけい)にダムを造り、それらに貯水した水から、1万6000キロの給・排水路を造りました。そして、3年輪作給水法という方式で水を分配しました。

網の目のように張り巡らされた嘉南大圳の給・排水路(台湾嘉南農田水利会資料より)

 八田技師が嘉南の農民たちから「嘉南大圳(かなんたいしゅう)の父」と慕われるゆえんは、平原に張り巡らせたこの給排水路にあります。その長さは、万里の長城の6倍以上、地球半周に近い長さです。土へんに川と書く「圳(しゅう)」は中国語で農業用水路、「大圳(たいしゅう)」は途方もなく長い用水路を示しています。

 台湾最大の穀倉地帯として蘇った嘉南平野。地域農民の生活が一変していきました。農民は遠くへ水をくみに行くこともなくなり、教育費の捻出によって、多くの有能な人材が育ちました。大任を果たした八田技師は次の仕事のために出航します。1942(昭和17)年5月、太平洋戦中にことです。その船は東シナ海で米・潜水艦に撃沈されたのです。持てるすべてを台湾に尽くして散った56歳の生涯でした。

 朝靄が立ちこめる前の暁、台湾の嘉南平野をうるおす烏山頭水庫(すいこ)には、蒼い湖面に大小の小島が浮かびます。サンゴが枝を広げた湖岸の描線から「珊瑚潭(さんごたん)」とも呼ばれます。この台湾最大の人造湖が灌漑用ダムであると思えないのは、柔らかな風景と化した土堰堤のためでしょう。

堰堤から見下ろす朝焼けの烏山頭水庫(撮影・伊藤叡)

 2020(令和2)年12月、八田技師による嘉南大圳工事から100年目を記念して、『水明り 故八田與一追偲録(復刻版)』が発刊されました。八田與一の妻・外代樹(とよき)によって1943(昭和18)年に発行された限定本が、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」(世話人代表 徳光重人)の監修により北國新聞社から発行されました。八田技師が妻に宛てた最後の書簡など主要資料には中国語訳が付記されています。(土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ長)=毎月第1木曜日掲載