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2021.05.28

「川中島」を襲った山津波秘話 谷川彰英 連載16

武田信玄と上杉謙信の決戦の舞台

 「川中島」と言えば武田信玄と上杉謙信が直接戦った古戦場として余りにも有名である。長野駅から松代行きバスに揺られて南に行くと、広大な河川敷を持つ犀川を渡る。さらにまっすぐ南に下っていくと千曲川を越えて松代の町に入っていくことになるのだが、その千曲川の手前に川中島古戦場として知られる「八幡原」(はちまんばら)がある。

川中古戦場にある川中島古戦場史跡公園。1万2000平方メートルの広さがあり、長野市民の憩いの場になっている

 ここは1561(永禄4)年、両雄が戦った際、謙信が単身信玄の陣に乗り込み、太刀を浴びせたのを信玄がしのいだという伝説の地である。武田信玄と上杉謙信の戦いは1553(天文22)年から64(永禄7)年までの12年間に及ぶものだったと言われ、中でも61(永禄4)年の戦いが最大規模で、通常「川中島の戦い」というとこの戦いを指している。

古戦場は古来、千曲川と犀川の氾濫に悩まされてきた!

 「川中島」と言えばまずこの両雄の戦いが浮かぶが、よくよく考えれば水害に縁のある地名である。「川の中の島」であると考えただけで、土地の形状をイメージすることができる。

 ここでいう川とは信州を代表する「犀川」と「千曲川」のことである。長野県歌「信濃の国」では「流れよどまず行く水は 北に犀川千曲川 南に木曽川天竜川」と謳(うた)われている。このうち南に流れる木曽川と天竜川はそれぞれ別のルートを流れるが、犀川と千曲川は現長野市の地点で合流している。犀川は北アルプスから流れる梓川を主流にして松本盆地の支流を集める大河で、それが長野盆地に出る地点で千曲川と合流し、新潟県に流れ込んで我が国最長を誇る信濃川となる。

川中島古戦場史跡公園内にある武田信玄(左)と上杉謙信の一騎打ちの像

 川中島はこの犀川と千曲川が合流する手前の「川の中の島」を意味していた。古来度重なる洪水に悩まされてきた地域でもある。川中島という地名は信玄が命名したという説があるが定かではない。ただ信玄・謙信両雄の戦いがこの「川の中の島々」を舞台に展開されたことは事実である。

 長野市には「川中島」の以外に犀川沿いに「丹波島」「青木島」「綱島」「真島」がある。その他にも「大豆島」「屋島」など多数の「島」地名が分布しているが、これらはいずれも犀川・千曲川などの氾濫によってできた島状の地形に由来すると考えられている。

 長野盆地は県歌「信濃の国」では「善光寺平」と呼ばれているが、近世までは「川中島平」もしくは「川中島四郡」(更科郡・埴科郡・高井郡・水内郡)とも呼ばれていたらしい。その「川中島平」の範囲は現在の長野市を中心にした「北信」全体に及んでいたという。

善光寺地震と山津波

 1847(弘化4)年3月24日、この地方を1000年に一度といわれる直下型大地震が襲った。時あたかもこの年は善光寺のご開帳の時期と重なり、全国から数千人規模で参拝者が宿泊していた。善光寺の建物の被害は最小限に食い止めたものの、善光寺市中だけで死者約3000人、倒壊消失した家屋は2000余に及び、倒壊の被害を受けなかった家屋はわずか142軒という惨事であったという。

 この地震による二次災害として起きたのが山津波であった。山津波とは、地震による山塊の崩壊によって河川が堰(せ)き止められ、一時的にダム状態になるものの、水量を抑えきれなくなって一気に流れ落ちる現象である。

 善光寺地震の場合、犀川右岸の岩倉山(虚空蔵山)が崩落し水深65メートルの堰止湖を形成した。その長さは犀川に沿って30キロにも及んだといわれ、いくつもの村が水没している。

 折しも雪解けの時期に重なり(新暦では5月)、水量は瞬く間に増加して、ついに地震発生の19日後に堰止湖は決壊し、推定3.5億立法メートルもの水が川中島方面に流れ込むことになった。多くの村々が高さ数十メートルの山津波に流されたが、事前に避難していたこともあって死者は100人余りに抑えられたという。

治水と観光用バス道路づくりの一石二鳥を狙って着々と進む長野市裾花川の築堤工事(1952年2月、左)の様子と、戦後直後は春の雪解け水による増水で堤防が決壊しないよう、犀川流域では蛇カゴを作って護岸工事を進めていた(1954年4月)

氾濫を救った受刑者たち

 犀川の氾濫に関してはどうしても紹介したいエピソードがある。戦後の1949(昭和24)年9月23日、長野市一帯は激しい集中豪雨に見舞われた。戸隠連峰に水源を発し長野市の中心部を流れて犀川に注ぐ裾花川が氾濫の危機にあったという。県の土木課も必死に対応しようとしたが、とにかく人手がない。現在では自衛隊の発動ということになろうが、当時はまだ、そのような体制はできてはいなかった。そこでやむを得ず、土木課長は長野刑務所の受刑者の力を借りようと考えて依頼したという。

 依頼を受けた刑務所内には困惑が広がった。刑務所の外で作業させる場合、常につきまとうのは集団逃走の問題である。最終的には所長の判断に委ねられることになったが、所長は不祥事を起こした場合は辞職する覚悟で1000人の受刑者を裾花川の氾濫防止と復旧作業に当たらせることにした。

 作業は翌9月24日から10月2日までの9日間に及んだが、逃走者は一人も出ず、濁流にのみこまれて犠牲になった者もなかったという。昼夜を分かたず交代で決壊した堤防の復旧作業に取り組む姿に感動した市民からは、連日握り飯や菓子・牛乳などが差し入れられたという。

 これはまさに奇跡に近い出来事だったが、その裏には所長の適切な決断とともに、受刑者たちの災害に真摯に向き合う心があった。ある受刑者が次のような言葉を残している。

 「洪水の惨状と真っ青な顔で立ち尽くしている市民の姿を見たら、闘志が湧き、危険にもひるまず、夢中で作業を続けた。誰からも強いられずに力一杯働くことは嬉しいことで、逃走なんて考えるものはいなかった。皆が人間の本来の姿に戻り、ただ水を止めることだけに一生懸命だった」

 東日本大震災からはや10年、いま一度災害に向き合う心を考えてみたい。(作家・筑波大名誉教授)=毎月第3木曜日掲載