2025.02.26
ひな祭りない「ジェンダーフリーの家」から宇宙へ 向井千秋さん

医師の向井千秋さんがアジア初の女性宇宙飛行士に選ばれて注目されたのは40年近く前です。72歳になった今、東京理科大学で特任副学長としてダイバーシティー(多様性)の推進や宇宙教育を担当しています。ジャーナリスト・田原総一朗さんのインタビューでは、道を開いてきた原点は、父が選んだモスグリーンのランドセルにあったと語りました。「ジェンダーフリーの家」で育ったという子供時代はどんな日々だったのでしょうか。
ランドセルが赤と黒だった時代に…
田原 中学校の理科教員の父とカバン店を営む母に育てられたそうですね。お父さんが小学校入学時に合わせて選んだランドセルの色はモスグリーンだったとか。女子のランドセルは赤だった時代ですが?
向井 母のカバン店に売り物ではなく、サンプル品として飾られていたランドセルです。
当時、赤や黒以外のランドセルを買う人はほとんどいませんでしたが、春らしい緑色が飾ってあると、店内が明るく見えるじゃないですか。
サンプルなのでタダみたいなものですし、父はグリーンが好きだったようで「あれがいいんじゃない、千秋」と言うんです。
私もすごくきれいな色だと思っていました。
「いつも意識しているのはオンリーな私」
でも、学校ではみんなと同じ色ではないので「背中にガマガエルを背負っている」といじめられました。
もう、嫌で嫌でしょうがなかったんですが、3年生くらいになり「これは世界で私しか持っていないんだ」って思えるようになったんです。
「この緑のランドセルって、いいでしょう」って自信を持って周りに言うようになったら、みんながほしがるようになりました。
今も私がいつも意識しているのはユニークネス(独自性)やオンリーな私。その大切さに気付けたのは父のお陰です。
田原 家庭の環境は、その後の学びや向井さんの人生に影響を与えましたか? 勉強はどちらが見てくれたのでしょう。
向井 勉強なんか見てもらうことはありません。
学校から帰ったら、家にランドセルを放り投げて、みんなで近くに遊びに行ってました。
群馬の田舎に住んでいましたから、缶蹴りをしたり、ドジョウを捕まえたりです。学習塾もなくて、習い事があっても、習字教室やそろばん塾といった時代でした。
両親は「嫁入り道具は一切買えない」
父の給料は多くなかったようで、4人の子供を育てるために母はカバン店をやっていました。
物心がついた時、両親に「うちはお金がないから、あなたがお嫁に行く時に、嫁入り道具は一切買えない」と言われました。
一方で「学費は出すようにするから、自分でやりたいことを探してらっしゃい」とも言うんです。
私の洋服なんか穴に継ぎ当てするほど粗末でしたが、子供の教育については、精いっぱい後押ししてくれました。一生懸命働いて、私が好きだったピアノもやらせてくれましたね。
当時としては、かなりリベラルな人たちだったと思います。夫は「ご主人様」みたいな家も多かったのに、2人は平等な関係で、「喜久男さん」「ミツさん」と下の名前で呼び合っていました。家の食事も手が空いてできる方が作っていました。
男女4人のきょうだいでしたが、両親は「男の子だから」「女の子だから」という考え方もしないので、我が家には、ひな祭りがありませんでした。あるのは「こどもの日」で、5月5日はみんなそろって、こいのぼりをあげたのを覚えています。
インクルーシブな父、起業家のような母
父は中学教員なのに、大好きだった植木等の「スーダラ節」に合わせて「教師なんてものは大したもんじゃない」みたいな歌詞の替え歌を口ずさむ面白い人でした。
また、幼いころにぜんそくがあり、学校では普通学級ではなく、ハンディキャップのある子供たちと一緒に勉強していたようです。
その経験からなのか、すごく心の優しい人で、今風に表現すると、インクルーシブ(包摂的)な感覚が身についている人でもありました。
田原 それは素晴らしい両親ですね。
向井 母も今風に表現すれば起業家みたいな存在だったのでしょう。
ししゅうの技術があって巾着にサクラの花や舞妓(まいこ)さんの絵柄を縫うと、進駐軍の人たちがお土産などとしてたくさん買ってくれたそうです。
それで3畳一間くらいの狭い場所から巾着を売る店を開き、やがてカバン店として大きくしました。
教育方針は「遊んでもいいけれど……」
性別で区別しない「ジェンダーフリー」の家でしたし、カバン店で働いている人との大家族のようなもので、食事は大皿料理で一緒にとっていました。
私もご飯の用意がない友達がいたら「うちおいでよ」と誘っていました。料理は粗末でしたが、みんなでおなかいっぱいご飯を食べていました。日本全体が貧しかったから、そういうふうに富を分かち合っていたんですね。
田原 両親に面倒を見てもらわずに、1人で勉強していたのですか?
向井 うちの教育方針は「遊んでもいいけれど学校の成績が悪くなったり、宿題をおろそかにしたりはしない」というものでした。
私は5歳くらいから始めたスキーがやりたかったので、必死で宿題も、勉強もこなし「この間のテストの点数も良かったから、土日はスキーに行くよ」って出かけていました。
母は、貧しい農家の生まれでしたので、希望していた大学進学はかなわなかったそうです。
「女に学問はいらない」っていう時代で、高校を出るのがやっとくらいでしたしね。だから子供たちは大学に行かせてあげたいと思っていたんですね。
母が生まれ育った村では、学校と村長さんの家にしかオルガンがなくて、弾くことはできず、いつも村長さんの家のそばで音を聞いて過ごしていたそうです。子供が生まれたら、オルガンかピアノを習わせてあげたいと思っていたようです。
将来の夢は早く決めた方がいい?
田原 小学校4年生の時、弟さんの病気がきっかけで将来の夢を決めたそうですね。
向井 弟は三つ年下ですが、大腿(だいたい)骨が変形するペルテス病と診断されました。地元にある整形外科ではうまく治療できず、先生に「東大病院の専門医に診てもらいなさい」と言われました。
父と母が弟を抱きかかえ、私は荷物を持って両親の後ろに付いて東大病院に通いました。
弟はペルテスのためにうまく歩けませんでした。子供って残酷なところがあるので、みんなにいじめられていました。やるせない気持ちになって「困っている人を助けたい」「だったら医者になりたい」と思いました。
田原 それで大学の医学部に進もうと思ったんですね。
向井 将来の夢を早く決めたので、その後の人生は楽だったかもしれません。
なぜなら目標に向かえばいいだけだからです。人生で一番つらいのは何に向かえばいいか分からない時だと思います。
自分が何者になりたいのか分からない、何を勉強したらいいのか分からない、自分の興味は何かが分からない、と悩んでいる中途半端な時期のことです。
迷う時期があってはいけない?
田原 でも、僕は迷う時期があるのは、人間にとってはとても大事だと思いますが。
向井 迷う時期があるのはいいのですが、その期間が大きく長引くと、つらくなります。
私はよく「幽霊船」で表現しています。
例えば、横浜港から出る船の目的地がニューヨークと決まっていれば、この先、嵐に遭った時のために準備をしておこうともなりますし、航海の途中で方角や天候も確認します。でも、幽霊船のようにどこに行けばよいか分からなければ、横浜港のあたりを漫然とふらついてすごくつらいと思うんです。
田原 多くの子供は自分にどんな才能があるのか、何に向いているのか、なかなか分からないと思うのですが。
向井 「博士ちゃん」というテレビ番組を見たことありますか? 大人でも知らないような昭和の歌をよく知っているとか、神社仏閣に詳しいとか、いろんな分野に興味を持っているちびっ子を紹介する番組です。
途中で方向転換してもいい
まずはこういう感じで、自分の向き不向きを知ったらいいと思うんです。
学校の科目じゃなくても構いません。ご飯を食べるのも忘れるぐらい好きなことに取り組んで、やり遂げた子は、その興味が変わったとしても、何かを追究するやり方がわかっているので、他のことをやっても伸びていくと思います。
幸運にも早い段階で将来の目標が見つかれば、それに進めば良いと思います。でも、縛られる必要はなく、いっぱい選択肢があるわけなので、途中でいくらでも方向転換してもいいんです。【構成・竹内良和】
むかい・ちあき
1952年、群馬県館林市生まれ。慶応女子高校出身。77年に慶応大学医学部を卒業し、医師免許を取得した。心臓外科医として慶応病院に勤務後、85年にアジア初の女性宇宙飛行士に選出。94、98年にスペースシャトルに搭乗し、宇宙医学(宇宙と老化現象)や生命科学分野の実験を担った。2012年にJAXA宇宙医学研究センター長、14年に政府の教育再生実行会議委員、15年には東京理科大学副学長に就いた。現在、同大で特任副学長、スペースシステム創造研究センタースペース・コロニーユニット長、ダイバーシティ推進会議議長を務める。医学博士。慶応義塾評議員。夫は病理医で、エッセイストの向井万起男さん。
たはら・そういちろう
1934年、滋賀県生まれ。早稲田大第1文学部卒業後、岩波映画製作所に入社。その後、64年に開局した東京12チャンネル(現テレビ東京)のディレクターとして、タブーに挑戦する多数のドキュメンタリー番組を手がけた。77年からフリーとなり、討論番組「朝まで生テレビ!」(BS朝日)と「激論!クロスファイア」(同)で司会を務めている。著書に「日本の戦争」(小学館)、「堂々と老いる」(毎日新聞出版)、「全身ジャーナリスト」(集英社)など。
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