2021.12.22
暴れん坊将軍と堤防の花見 連載25 緒方英樹
1590(天正18)年、徳川家康は豊臣秀吉の命令で江戸に転封となりました。家康が江戸に入城した8月1日は農家が新穀を取り入れ、豊作を祈る八朔の日でした。
ところが、当時、江戸を囲む関東、現在の埼玉東部から東京東部の地帯は平野と言うより大湿地帯でした。利根川、荒川、入間川の全てが江戸湾に注ぎ込み、大雨が降れば何日も何日も冠水したままの寒村が広がっていたことでしょう。家康はこの大湿地帯を新天地につくりかえるべく、江戸の大改造に挑みました。家康による江戸の改造は、治水事業から始まったのです。
まず、江戸城を中心に濠と河川と運河を連環させた水の道づくりを進めます。その大改造のかなめとなったのが利根川の流れを江戸湾から銚子に向ける利根川東遷でした。
それ以前、利根川は太平洋ではなく、江戸湾(現在の東京湾)に注いでいました。埼玉平野を南下して東京湾に流れ出ていたのです。その大きな流れを人為的に東へ東へと変える東遷事業は約60年も続きました。その目的は、江戸を利根川の水害から守ること、洪水地帯を豊かな新田へ開発していくこと、舟運を発展させることにありました。この一大プロジェクトが、その後の江戸を発展させる礎となったのです。
江戸時代、吉原通いの人々でにぎわったという日本堤のあたり。土手は平らにならされた。奥はスカイツリー
徳川幕府と隅田川の治水
そして、家康、秀忠、家光と三代にわたって城の拡張と城下町づくりは佳境を迎え、徳川幕府による百万都市形成は続いていきました。
江戸時代、江戸のまちに流れ込んでいた隅田川が、洪水で何度も人々を苦しめていました。江戸市中では大川とも呼ばれていた荒川、つまり隅田川の洪水をいかに制御するかが江戸幕府にとって、最大のテーマとなっていました。舟運で江戸と関東一円を結ぶ大切な川でもあったからです。また、隅田川は江戸の湿地帯を流れていたため、利根川のように流路を遠くへ移動させるわけにもいきません。
江戸幕府は、家康の模範を踏襲します。
家康が、1608(慶長13)年、尾張藩領を水害と西南諸大名から守るため尾張平野を取り囲むような大堤防「御囲堤(おかこいづつみ)」築堤を命じたように、江戸幕府の治水は溢れさせるという原則をとりました。
江戸を襲う隅田川は北西から流れていました。幕府は、江戸最古の浅草寺を治水の拠点とします。浅草寺の小さな丘から堤防を北西に延ばし、その堤防を今の三ノ輪から日暮里の高台にぶつける。この堤防で洪水を東へ誘導して隅田川の左岸で溢れさせ、隅田川の西の右岸に展開する江戸市街を守るというものでした。
1620(元和6)年、徳川幕府はこの堤の建設を全国の諸藩に命じました。浅草から三ノ輪の高台まで高さ3メートル、堤の道幅8メートルという大きな堤が、80余州の大名たちによって60日余りで完成したのです。日本中の大名たちがこの堤の建設に参加したので、この堤は「日本堤」と呼ばれるようになったといいます。
和歌山市の和歌山城近くにある八代将軍・徳川吉宗の銅像は、夏休み前の7月、水難事故防止を訴えるため、銅像に特製のライフジャケットが着せられる
暴れん坊将軍、花見で堤防を守る
それから1世紀以上たち、8代将軍・徳川吉宗の時代がやってきます。家康、秀忠、家光の3代で築き上げた全国支配体制は、土台が揺らぎ始め、政治も経済も混迷の時代にさしかかり、人々は骨太のリーダーを待ち望んでいました。そこへ兄たちの死去により思わぬ展開で現れたのが、若き紀州藩主・吉宗でした。弱体化した紀州という地方自治体を緊縮財政と卓越した農政で再建させた実力者の登場でした。
江戸幕府3大改革の一つ、享保の改革で、幕府財政の再建をめざした吉宗は、米相場の安定を目的とした年貢増徴の手段として、新田開発を奨励し、井沢弥惣兵衛為永に多くの溜井の新田開発を命じました。為永は、見沼新田、見沼代用水開削など様々な干拓・かんがい事業で成果をあげます。その土木工法は、伊奈一族により確立された関東流、すなわち、河道の蛇行を生かし霞堤等で自然の流れを受け入れた工法に対して、紀州流と呼ばれ、蛇行していた河道を直線化、強い築堤と川除・護岸により直線状に固定、用水と配水を分離しました。
隅田川の花見には、今も屋形船が人気だ
吉宗の改革では、江戸の市民を対象としたさまざまな施策がよく知られます。
時は天下太平。戦は遠い昔のこと。「消費文化こそ美徳」と華美に走る若者に、吉宗は「倹約こそ美徳」とたしなめました。自ら木綿羽織を着て質素な衣食に努め、衣服や食事まで制限して引き締める一方、庶民の気持ちを晴らすため、隅田川堤などに植樹して桜の花見や花火見物などで大いに元気づけました。江戸っ子たちが隅田川で花見を始めたのは、吉宗の政策がきっかけだったとされています。
隅田堤は現在では桜の名所として知られていますが、この桜は4代将軍、徳川家綱の頃に植えられたものと言われています。このころの花見と言えば、たくさんの桜ではなく、1本の桜を鑑賞するのが通例でした。そのため、家綱の代では、桜は数本しか植えられていませんでした。これを増植させたのが徳川吉宗です。このころには100本もの桜が植えられていたと言われています。なぜ、100本もの桜を植えたのでしょうか?
花見の習慣をつくったのは、幕府による「ある目的」がありました。
堤は土で造られています。機械や重機で締め固められていたわけではありません。春になると柔らかな堤に菜の花が咲くと根っこにミミズが集まって穴があき、ミミズを捕食するモグラも集まってきて堤防を傷つけます。地震や大雨も堤防を弱らせます。
ところが、桜の花が咲く時期になると、きれいな桜を一目見ようと大勢の人が集まります。そうすると、集まった人たちによって川沿いの地面や堤防の土が少しずつ踏み固められて、簡単には決壊しない「堤防」ができると吉宗は考えたのでしょう。川沿いに桜が多いのはこういう理由もあるのです。
吉宗は、飛鳥山などにも桜を植えて庶民が花見を楽しめるようにしました。吉宗が隅田川に桜を植えた話は、墨田区向島5丁目にある隅田公園内にある「墨堤植桜之碑」に記されています。1717(享保2)年に吉宗が100本の桜を植えた後、追加の植樹や世話は地元の村の有志が行ったそうです。(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)