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2025.05.01

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 海水を制する 横浜の入海を干拓した吉田勘兵衛 連載65回 緒方英樹

遠浅の入海が広がっていた場所

 昔、といっても今から400年ほど前、徳川幕府が開かれた当時、横浜は平地の少ない寒村で、現在の横浜駅や関内駅あたりが海だったことを想像できるでしょうか。

 江戸時代初期、大岡川が河口に注ぎ、遠浅の入海(いりうみ)だったところを埋め立てて、新田開発をした人物の名は、吉田勘兵衛(よしだかんべえ)と言います。江戸の木材・石材商です。いったいどのようにして自然の海を埋め立てたのでしょうか。

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 吉田勘兵衛は、慶長16(1611)年、摂津国(大阪府)歌垣村(現在の能勢町)に生まれ、江戸で莫大な財を成した豪商です。その勘兵衛が40代になって注視したのが、大岡川の河口から広がる洲乾湊(しゅうかんみなと)と呼ばれた遠浅の入り江、釣り鐘の形をした入海でした。

 目を凝らした勘兵衛の思惑は、この入海を埋め立てれば広大な耕作地になるというものでした。江戸幕府が年貢増収政策として、積極的に奨励していた新田開発にかなうと合点したことでしょう。とはいえ、原野・山林など陸地に新しく耕地を開くのとはわけが違います。何しろ、海を埋め立ててそこに新田を開発するにはいくつもの難題がありました。

入海の干拓に立ちふさがった難題と、梅雨前線

 1586(明暦2)年、勘兵衛は江戸幕府の老中酒井忠清と松平信綱から入海の埋め立て、新田開発の許可を得ると、鍬(くわ)入れ式をおこなって新田の開発に取りかかります。

 その計画は、大岡川と中村川に囲まれた開発地に海水の流入を防ぐ堤防(潮除堤)を築き、その堤防に囲まれた海を干上がらせるというものでした。

 ところが、工事に協力を求めた地元民から猛反対に遭います。大工事には資本力だけでなく、技術と人手、そして周囲の村民の同意が何より必要だったのです。

 「海がなくなったら魚貝や塩がとれなくなる」。そうした地元の声に対して勘兵衛は「この干拓事業によって将来、広大な耕作地が生まれて生活が潤う」ことを何度も説得して工事を始めた翌年、思わぬ試練が勘兵衛を襲います。

 雨です。それも、13日間も降り続く梅雨前線によって滝のような激流が大岡川を氾濫させて入海に流れ込んだのです。せっかく築いた潮除堤は崩れ、そこには工事前と何ら変わらぬ風景が横たわっていました。勘兵衛の意気消沈が目に浮かびます。

不屈の再挑戦・「吉田新田」なるか

 2度目の大チャレンジは、1659(万治2)年に工事を開始しました。今度は技術請負人として二人の助っ人が加わりました。一人は、横須賀の内川新田や江戸砂村で多くの新田開発を主導した土木技術者・砂村新左衛門(すなむら・しんざえもん)、もう一人は、箱根用水を完成させた治水家・友野与右衛門(ともの・よえもん)でした。

 前回の轍(わだち)を踏まぬように、今度は、大雨や台風でも崩れない防潮堤を築くために強固な石垣づくりが施されていきました。新田となる範囲を包み込む潮除堤です。

 堤の石は、伊豆や千葉の房総から舟で運び入れ、大岡川と中村川の両方合わせて2725間(約4954㍍)の石堤をつくりました。

 土は、山から運びます。大田村の天神山(現在の日ノ出町駅裏)、石川中村の大丸山をそれぞれ崩して取り出し、小舟で運んで埋め立てます。水路の溝さらいから、大小の樋や板堰の設置まですべてが人海戦術でした。さらに、築堤に関わる土木技術は、戦国時代の築城で急速に発達、蓄積されてきた継承があるのかもしれません。

 そして、何より苦心したのが「悪水(あくすい)」の処置方法でした。

 悪水とは、水田から排出される不要な水のことです。雨が降るとこの悪水がたまってしまいます。この悪水を海に流す仕組みをつくることも不可欠なことでした。吉田新田では、悪水を下方の沼地でいったん留め、二カ所設けた悪水吐出口(水門)から海へ放出したとみなされています。

 こうして10年余りの年月をかけて新田は完成、勘兵衛は55歳になっていました。そして、1669(寛文9)年、勘兵衛は4代将軍徳川家綱から名字帯刀を許され、新田は吉田新田と命名されました。この干拓事業は、吉田勘兵衛の名を襲名して子々孫々に継承されていったことにも驚かされます。

「吉田新田」に住む人々の保護と五穀豊穣を祈願して建てられた「お三の宮日枝神社」。神社の周辺地域は、かつての開港場を指す「関内」と区別し、開港場の関門の外側にあることから「関外」と呼ばれてきた

「吉田新田」の現代的意義とは

 吉田新田完成から187年後の1854(安政元)年、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが洲乾湊に上陸します。日米和親条約を結んだ5年後、開港地となった湊は、横浜の中心地となっていきました。

 新田開発を目指した干拓地は、時代の流れとともに水田から町へと姿を変え、ひいては横浜開港の、そして横浜発展の礎となったと言えるでしょう。

 「海水を制する」。今回は干拓について述べましたが、次回は、人工の新しい土地を海の上につくる「埋め立て」について紹介します。似て非なる「干拓」と「埋め立て」。浅野総一郎による京浜臨海部埋め立てについて検証します。

ペリー率いる東インド艦隊が横浜に上陸したときの様子を描いた図

緒方英樹(おがた・ひでき)土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ 土木史委員会副委員長。著書「大地を拓く」(理工図書)で2022年度土木学会出版文化賞を受賞