2022.05.17
「長久手」の暗号 連載29 谷川彰英
小牧・長久手の戦いに秘めたる作戦
「長久手」と言えば、歴史好きな人には「小牧・長久手の戦い」がすぐに思い浮かぶに違いない。この戦は、羽柴秀吉と織田信雄(のぶかつ)・徳川家康の間で繰り広げられた戦で、犬山城に拠点を置く秀吉軍に対して家康軍は小牧山城に陣を敷き、犬山城VS小牧山城のかたちでにらみ合っていたのだが、ある作戦のもとに戦場を「長久手(長湫)」に移して行われたので、一般に「小牧・長久手の戦い」と呼ばれている。
その戦略は秀吉軍が考えたもので、「中入り」というものであった。「中入り」とは対峙している敵軍の後ろに軍の一部を回して、双方から挟み撃ちする戦略である。1584(天正12)年4月7日、羽柴秀次を大将とする1万5000の軍勢が三河に向かった。
ところが、この戦略は家康側に筒抜けで、逆に家康軍が先手を打って長久手に移動して待ち伏せ、秀次軍を撃ち破ったというのがことの顛末である。
「湫」から「久手」へイメージチェンジ
2012(平成24)年、長久手町は長久手市になったが、「長久手」の表記の由来は明治にまでさかのぼる。1906(明治39)年、それまであった「上郷村」「岩作(やざこ)村」「長湫(ながくて)村」の3つの村が合併されて長久手町が誕生した。「長久手」という表記は「長湫」の「湫」のイメージチェンジを図って表記を変えたに過ぎない。
「湫(くて)」とは「じめじめして水草などが生えている低地」を意味している。この一帯には遊水地をそのまま田んぼにしたところもあり、昔から湿田として知られていた。「長湫」は文字通り「長い湿地帯」を意味するわけで、秀次軍はそんな湿地帯で家康軍に襲われたことになり、完全に家康軍の作戦勝ちだった。
2000年9月の東海豪雨による香流川水害の爪痕=長久手市役所提供
「湫」という地名は愛知県一帯に多く、尾張旭市北原山町鳴湫(なるくて)、岐阜県瑞浪市大湫町(おおくてちょう)などがあるが、いずれも低湿地帯で水に弱い。
長久手地方には「香流川」(かなれがわ)という見目麗しい川が南東から北西方面に流れ、名古屋市名東区に注いでいるが、これまで幾度となく氾濫を繰り返してきた。近年では、2000(平成12)年9月の東海豪雨で大きな被害を及ぼしている。
公園の地形から史実を体感
長久手の取材に訪れたのは東日本大震災の年だったから、もう11年も前のことになる。リニモの「長久手古戦場駅」は2005(平成17)年に開催された愛知万博の長久手会場のために特設された駅である。
駅を降りてびっくり!ホームが空中に浮いている! それだけ長久手の谷が深いとも言えるのだろう。駅を降りて左手に100メートルも行くと、そこはもう古戦場公園である。公園の一角には長久手市郷土資料室が置かれ、一命を落とした武将の塚などもある。
長久手合戦を語り継ぐ血の池公園の石碑=長久手市役所提供
公園の西にある「血の池公園」という、聞くにだに恐ろしい公園に足を運んでみた。今はグラウンドになっているが、石碑には「血の池は、家康方の渡辺半蔵などの武将が、血槍や刀剣を洗ったことからその呼び名がついたと言われています」と刻まれている。
家康が陣を構えた色金山(いろがねやま)の山頂には、家康が座って陣を執ったという「床机石」(しょうぎいし)が置かれている。
結局、家康の「長湫」の地形を利用した作戦勝ちだったのである。(作家、筑波大名誉教授)=毎月第3木曜掲載