ソーシャルアクションラボ

2025.11.25

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 〝水田〟と〝治水〟の深~い関係 ~日本の田んぼを整えた上野英三郎~ 連載70回 緒方英樹

田んぼの水は、なぜ、漏れないのか?

 田植えから稲刈りまでさまざまな景色を見せる水田は、地域ごとに個性的な顔を見せてくれます。毎年、田植えの季節がやってくると、田んぼには満々と水が張られ、春の陽に光っています。

 水田とは、水を溜めて稲を栽培する田んぼのことですが、なぜ、田んぼの水は漏れずにたまっていられるのでしょうか。

水田は、灌漑(かんがい)水をたたえて作物を栽培する耕地で、日本では水稲耕作が多い

 畔(あぜ)に囲まれたその田面は、どこもかしこも平らです。しかし、このあたり前に見える光景、実は、計算されているのです。

 水田をよく観察すると、給水する水路と排水する路があります。用水路から灌漑(かんがい=農作物の生育のために、川、湖、地下水などの水源から人工的に水を引き、農地に供給する技術)された水が絶えず一定量を保つために様々な条件を考えて設計されています。

 そして、田んぼを囲む畔(あぜ)は水をため、稲が生育する土の下にある鋤床層(すきどこそう)は水が地下に染み込むのを防ぎ、この二つの層が、水を簡単に通さない粘土質であることで水漏れを防いでいるというわけです。

 司馬遼太郎の「この国のかたち一」(文春文庫)に次のような下りがあります。

「山からの水を受けて水平に張り水するために、田という農業土木的な受け皿が必要なのである。また田から水を抜くために、排水溝をつくらねばならず、要するに稲作は伝来のときから農業土木がセットになっていた」

 日本の農業は、人々が集団で生活を営み、農耕を始めた時点から、土木と深く結びついてきました。

 それは、たとえば、弥生時代後期の遺跡として発掘された登呂遺跡や佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡からも散見できます。集落の近くに畔と水路で区画された水田跡が見られるだけでなく、洪水から集落や田畑を守る護岸工事跡さえ見つかっています。田畑を整え、水路を引き、農業を守るための土木工事は、日本の場合、時にひょう変する気まぐれな自然とうまくつきあいながら営々と行われてきました。

 時は巡り、現在の水田稲作を支える綿密な構造に至るまでには、稲作が伝来したときから昭和時代にかけて先人の知恵と多大な工夫が注ぎ込まれてきました。そして、司馬遼太郎の言う「田という農業土木的な受け皿」を整備、すなわち水田の耕地整理や用排水路の整備など農地の近代化を主導したのが上野英三郎という農学者です。

農業土木という学問の基礎を築いた上野英三郎

 それまでの水田は、小さなサイズの水田が分散していて、しかも、それぞれ用水路と排水路につながっていませんでした。そのため、各自の水田ごとに水を入れたり排水したりできない、道路が各区画に接しないため農業機械が入れない――という状態が続いていました。

 明治政府はあらゆる分野で近代化を押し進め、中でも農業の近代化は欠かせないものでした。その基礎となるのが耕地の改良であったのですが、狭い田んぼ、そして前代からの複雑な所有権が絡み、耕地整理ははかばかしく進みませんでした。

 そうした状況下、上野英三郎は、東京帝国大学農学部に農業土木専修を創り、農法近代化の観点から農業土木という新たな学問の基礎を築きます。

 上野は、1871(明治4)年、三重県一志郡本村(現在の津市東部)に生まれました。帝国大学農科大学農学科を卒業後、農業土木及び農具の研究のために大学院に進みます。同大の講師となったときには、耕地整理法の立案・制定に関わり、助教授になった33歳のとき「耕地整理講義」という本を著します。これは、上野が農商務省の技師を兼務しながら耕地整理技術員を養成するために行った講義ノートをまとめたもので、農業土木学を確立した著書として高く評価されています。

 耕地整理とは、農地を整備して米の収穫を増やすことです。農業機械を使えるように水田の区画を整理するため、道と水路を作り直す農業のための土木事業でもありました。

 用水路に必要な水の量を科学に基づいて解析する、効率の上がる水田の区画を整理する、農道や排水路の大きさや勾配を決めるための数を表す――。こうした、後々に役立つ公式や基準をつくりあげたのが上野英三郎です。 

忠犬ハチ公ものがたり

 1932(昭和7)年10月4日付の東京朝日新聞に「いとしや老犬物語 今は世になき主人の帰りを待ち兼ねる七年間」という記事が掲載されました。

 東京・渋谷駅前の銅像で知られる忠犬ハチ公が、雨の日も風の日も待ち続けた主人こそ、実は、上野英三郎その人だったのです。渋谷の待ち合わせ場所として有名なハチ公ですが、その銅像の周りに集う人たちの多くは、その主人がいまも私たちの暮らしに大きな恩恵をもたらしていることを知る人は少ないのではないでしょうか。

三重県津市久居元町出身でハチ公の飼い主である上野博士とハチ公の銅像が、近鉄久居駅東口に隣接する緑の風公園に建っている

 物語は、ハチ公と上野との出会いから始まります。ハチ公は関東大震災の起こった1923(大正12)年、秋田県大館市大子内生まれの純粋な秋田犬です。 

 その時、東京帝国大学農学部教授だった上野英三郎は、子どもに恵まれなかったこともあって大の犬好きで、かねて秋田犬を飼いたいと望んでいました。

 秋田と東京という遠距離を結びつけた縁は、秋田で行われていた耕地整理事業にありました。その第一人者であった上野の教え子は全国に3000人以上にのぼっていて、その一人、秋田県の耕地課長が米俵に入れた子犬を伴って上京します。上野は自分の郷里・三重県に多い犬の名にちなみ「ハチ」と命名、座敷に上げて我が子のように慈しんだといいいます。

 成長したハチと上野は強い絆で結ばれ、上野が農事試験場や東京大学へ通う送り迎えをして17カ月たったある日、上野は大学で倒れてしまいます。二度と戻らぬ主人を、ハチは7年間待ち続けたという逸話があります。

 犬の主人たる上野英三郎が成した業績はいかにも地味に見えますが、この人なくして日本の近代農業は語れないでしょう。農業生産を効率的に行う基盤づくりに果たした役割と価値は極めて大きいと言えます。

〝水田〟と〝治水〟の深~い関係

 灌漑によって水をたたえる水田は、実に多様な機能を持っていることに驚かされます。水田は食料生産だけでなく、日本の国土や環境において重要な役割を担ってきました。

 日本は、国土の約4分の3が山地や丘陵地で占められており、平野が少なく、河川は短く川の流れが速いため、洪水や土砂崩れが起こりやすくなっています。水を貯めて、ゆっくりと外に出すことのできる水田は、ダムのように洪水を防ぎます。また、山の斜面や谷間の傾斜地にある棚田は、土砂崩れを起こしにくくしているのです。

田は、お米をつくる以外にも、日本人の生活のためにいろいろ重要な役目を果たしている

 水害を防ぐ役割を果たしているのが、田んぼ、ため池、用水路などの農業水利施設です。これらは洪水を一時的に溜めて、川への急激な流れ込みを緩和し、周辺および下流域での洪水被害の軽減・防止に役立っています。水田があるおかげで、大雨が降っても一気に水が流れず、地域全体の排水負担を軽くするという機能があります。稲作は水をコントロールする技術でもあるのです。また、田んぼは常に水を溜めているため、絶えず地下に水を浸透させ続けています。

 ところが、昨今の気候変動だけでなく、私たちの住む国土や住み方が変わると水害の現れ方も変わります。急速な都市化現象により、大都市近郊の宅地化がみるみる進むことによって、自然の遊水地であった水田や地下水などが失われています。都市水害が、変容、激化している要因の一つと思われます。

 古代から受け継がれてきた米づくりは今、米価高騰に端を発した農業問題だけでなく、国土づくりや水害の問題にも深く関わっています。人は、自然に手を加えることで快適な生活を手に入れてきましたが、今こそ、自然の猛威に立ち向かいながらも、真摯に向き合ってきた歴史を振り返って学ぶ時だと痛感します。

緒方英樹(おがた・ひでき) 土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ