2022.08.04
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ(第34回) 緒方英樹 琉球王朝の大臣は河川改修のエキスパート 蔡温(さいおん)
清で学んだ風水を河川改修などの技術に応用
沖縄の近世を代表する琉球王国の政治家で、蔡温(さいおん)という人物をご存じでしょうか。
蔡温とは唐名(からな)で、沖縄名は具志頭親方文若(ぐしちゃんウェーカタぶんじゃく)と言うそうです。王国再建に多くの業績を残した政治家であるだけでなく、学者としても多くの書物を残しています。450年にも及んだ琉球王国の歴史の中で、燦然と輝く星・蔡温が活躍したのは、江戸時代の中頃、徳川吉宗が享保の改革を行ったほぼ同時代のことでした。
沖縄の国頭村(くにがみそん)に「蔡温松」と呼ばれる松並木が残っています。その松から、蔡温という人物の業績をひも解いていきましょう。
沖縄本島北部に位置する国頭村を歩くと、松並木や集落内のフクギ並木にしばし癒されることでしょう。この松並木は、尚敬(しょうけい)王代(1713~1751年)に三司官会 (国王を補佐するブレーン)として国王を支えた大政治家・蔡温(1682~1761年)によって整備されたものが多いといわれます。
蔡温は1682年、那覇の久米村に生まれています。久米村には14世紀末、明から琉球に派遣された人々が代々住んでいたといいます。航海術や往復文書作成の指導に当たる人々で、蔡温はその子孫にあたります。
父親は王府の正史を編さんするほどの才人。名門の出自ですが、少年時代の蔡温は勉強嫌いだったことが、後に記した「自叙伝」からうかがえます。ところが、少年の心は計り知れないというか、何かをきっかけとして10代後半から猛勉強。26歳のとき、進貢使に随行して清国に渡り、福州で2年間、風水地理を学んできます。
風水(地理)とは、都市、住居、建物、墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用いられてきた古代中国で成立した学問です。
このことが、その後の蔡温を政治家として、同時に土木技術者として飛躍的にレベルアップさせたといえるでしょう。蔡温は風水を実学の基本として修得し、実際に応用する技術として土木工学を身につけたのではないでしょうか。
やがて、尚敬王が13歳で即位すると国師(こくし)という教育係に抜擢され、47歳にして三司官となり、国王を補佐して国政をつかさどる大臣の一人となりました。
その後の25年間、国政の中枢に立った蔡温は、羽地(はねじ)大川に代表される国中の河川改修、山林保護や植林、土地の測量と検地など、風水地理の思想に即した実践を行っていきます。その蔡温に一貫したテーマは、琉球の民が拠って立つ、幸せの土台づくりでした。
水不足や水害に見舞われる「島ちゃび」の解決に尽力
亜熱帯の植物、熱帯魚の群れるサンゴ礁の海、首里城跡(焼失)などグスクが登録された世界遺産。観光地として色鮮やかなイメージを放つ沖縄。気ままな旅行者には陽の射すまぶしさで気づきにくいかも知れませんが、島には昔から「島ちゃび(離島苦)」という、さまざまな痛みがありました。
沖縄には毎年多量の雨が降る、というのは正解ですが、だから水には困らない、とはならないのです。年間降雨量は梅雨期と台風期に集中するからです。水不足も深刻な「島ちゃび」の一つですが、住宅脇の貯水槽や屋上のタンクに貯水しても限りがあります。そして、沖縄の河川は短く、流域面積が小さく、勾配が急なため、ふだん流れる水の量は少ないのに、大雨が降ると一気に溢れていました。
蔡温が残した業績のなかに、河川改修があります。名護市羽地に建つ「改決羽地川碑記(かいけつはねじがわひき)」に、1735年の羽地川改修工事を指導した蔡温の名があります。工事の9年後に琉球王府が建立、現在の碑は3代目だというので、その業績が地域に残した大きさを物語っています。「改決」とは改めて(川を)開くの意です。
民衆の幸せとは、安定した生活の持続にある
きっかけは1735年7月、大豪雨により羽地大川下流域の水田は大被害を受けました。米作地帯に繰り返す氾濫に、地元は堪らず王府に陳情し、国王は蔡温の派遣を決定します。国家事業として、大臣自ら改修事業の陣頭指揮をとることは稀なことです。
その背景を見てみましょう。
一つは、琉球という小国の危うい立場がありました。琉球が国家としてその公称を用いたのは、第一尚氏王朝が首里に拠点を置いた1429年から、琉球処分で日本に併合される1879年までの450年です。1609年の薩摩藩による琉球侵攻以後は、王国としての独立性を保ちつつも、中国と薩摩藩・幕府に規制されるという日中両属のなかに置かれていました。
さらに、台風など自然災害の多い小さな島です。土地は痩せていて、産業は乏しい。政治家、思想家として蔡温の願った民衆の幸せとは、安定した生活の持続でした。それなしに琉球人としてのアイデンティティは保てないと考えたのです。
そうした琉球の「島ちゃび」を解決するために必要な方策として、学んだ「治水術」(土木技術)は有効でした。そして、有数の米作地である羽地大川流域の改修は、地元の要請であると同時に、王国にとっては農業国としての道筋を民衆に示す試金石でもあったのです。
工事開始は9月2日、米の耕作時期が迫っていました。国家の重要課題と位置づけ、近隣から農民を徴用。その数は延べ10万人余り。川筋を造り直し、4箇所の橋を架け、4筋の用水路を約7キロメートル掘りました。国の官僚や地方役人も呼んで、現場で最新技術を教えたのです。工事は正味77日で終えました。
工事総延長は、約4300メートル。そこで注目すべきは、蔡温は現地に到着して河川調査の翌日から10日間で、測量、改修設計の作成、工法と予算の決定、人夫の手配といった段取りを仕上げていることです。そして、風水地理に即した思想と技術は、現場で「稽古連中」と呼ばれた技術役人たちに伝授され、人材育成の場にもなりました。この経験と技術が、琉球各地の河川改修で活きていったのです。
翌年、蔡温主導の技術者集団は、国中の河川を改修、山林造成へと向かいました。蔡温は政治家、儒学者であると同時に、すぐれた土木技術者でもあったのです。(理工図書取締役、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ、土木学会土木史広報小委員会委員長)=毎月第1木曜掲載