2022.10.06
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 連載36回 ため池の達人・西嶋八兵衛~「讃岐の禹王」と呼ばれるもう一つのドラマ~ 緒方英樹
空海が修築した「龍の棲む池」
今は昔、満濃池(まんのういけ=香川県まんのう町)が万能池といわれていたころ、その海のような池には龍が棲んでいました。そんな伝説があります。
しかし、およそ伝説には民の願いが込められていることが多いものです。この龍は、農民にとって、雲を呼び、雨をもたらす祈りだったのかもしれません。
もともと讃岐地方は雨が少なく、大きな川が少ない地域でした。「親子でも水は別」とまで言われたこともあります。当時の民は、川から田に水を引くより、洪水の後にできた大きな水溜まりを土手で囲い、池にしたのかもしれません。とにかく、水不足に備えて水を溜めておく必要があったのです。
そして、溜めた水は漏らしたり、溢れさせたりすることなく、適量を必要な時期に給水しなくてはなりませんでした。それはとても難しい行為です。そのための土木技術が求められ、大陸からの知恵と工夫で不完全だった満濃池を修築したのが、弘法大師こと空海だったというわけです。
それでも、水の力は人の想像力を超えることがあります。やがて満濃池は大洪水で破れて四半世紀が経つと、池の底には集落さえ出来るありさまで、放置されていたのです。
その讃岐へやってきたのが西嶋八兵衛(にしじまはちべえ)という戦国武将でした。八兵衛がまず着手したのは、満濃池の再整備でした。空海による設計を解明すべく、地元旧家に残る家記を丹念に検討しました。周到な調査と準備で再整備工事は3年足らずで完成します。3郡44村に水が引かれました。さらに老朽化した池の修築や新設、新田開発、湿地改良を行い、米の収穫高は一気に増えたということです。
こんにち、香川県内で名のあるため池90余りをわずか数年で手がけた八兵衛はまさに、ため池の達人です。
待ち望まれた土木の人
西嶋之友(ゆきとも)、通称八兵衛とはどのような人物だったのでしょうか。
八兵衛が遠江 (とおとうみ=静岡県)の浜松に生まれた1596(慶長元)年は、豊臣秀吉の時代の終盤でした。17歳で伊勢の伊勢国(三重県)津藩主・藤堂高虎(とうどうたかとら)に仕え、大坂冬の陣、夏の陣で戦功をたてた武人でした。
この若武者が、やがて名うての土木技術者になるのは、築城の名人・藤堂高虎のもとで城普請や見積もり、設計を体得したことによると思われます。京都二条城の縄張り(設計)や大坂城修築の仕事で、戦国武人でありながら土木に造詣の深い八兵衛の名を藩外にまであげたのは、20歳そこそこの時でした。
当時、そして後にも、主君を何度も変える高虎のことを悪く言う者もいましたが、高虎は民政を大事にしていました。すなわち領民の生活を守る土木の人でもあったのです。主君のそうした面を八兵衛は見ていたのだと思います。
その八兵衛が、急きょ、讃岐の生駒藩へ出向となります。藩は3代目生駒正俊が急死して、4代目はわずか11歳の生駒高俊となっていました。藤堂高虎の孫にあたります。高虎は、藩主交代という厄介な政治手続きを26歳の八兵衛に任せたのです。
そんな大役を何とか果たした八兵衛は安堵して伊勢に帰ります。ところが、生駒藩は八兵衛の実力を見込んだのです。高虎に、ぜひ八兵衛を欲しいと懇願しました。讃岐は、救世主を待っていたのです。そのはるか昔、讃岐の農民がこぞって空海を待ち焦がれたように、土木の人を待ち望んでいたのでしょう。
当時の讃岐地方は、大地震の後に、大干ばつに見舞われていました。100日近く1滴の雨も降らず、他国へ逃げ出す農民も出るほど悲惨な状況となっていました。菅原道真が国司だった平安時代、「土が焦げるほど熱い」とまで嘆いた讃岐日照りはすさまじく、これが大雨となると鉄砲水が襲いかかるという惨状でした。
八兵衛は、そんな讃岐へ、客臣として生駒藩普請奉行の任に就いたのです。
中国の治水の神になぞらえた「讃岐の禹王」
中国の伝説に、暴れる黄河を鎮め「治水の神様」と呼ばれた禹王(うおう)という人物がいます。満濃池を改修した西嶋八兵衛こそ「讃岐の禹王」といまも讃えられる名治水家です。
西嶋八兵衛が整備したとされる香川県中部を流れる香東川=香川県河川砂防課提供
西嶋八兵衛が「讃岐の禹王」と呼ばれるもう一つのドラマがあります。
八兵衛が赴任したころの生駒藩は衰退し、天災が領民の生活を苦しめていました。讃岐の治水・利水事業を推進するため、八兵衛が池づくりのほかに成した大きな仕事は、2つに分かれていた香東川(こうとうがわ)の流れを一本化した付け替え工事でした。
香東川は雨が降るたびに 水嵩を増した濁流が人家に浸水し、そのうえ満潮時になると、川の流れに乗った海水が押し寄せて地域住民を悩ませていました。2本の川筋のうち、高松市内で溢れる天井川(土砂がたまって川床が周りの平野より高い川)の流れを堰き止め、1つの川にまとめる大きな工事が必要でした。
古くからある自然の流れを人工的に堰き止めるには大きな労力と費用がかかります。ところが、藩の財政はひっ迫していました。そこで八兵衛は、私費まで投じて工事を完成に導きます。この完成時、八兵衛は中国の治水の神様・禹王にあやかって石碑を記し、安全を願いました。
このことは、1913(大正2)年、堤防修復工事で偶然石碑が発見されてわかったということです。この石碑が、いまは高松市の栗林(りつりん)公園内にあります。
大正時代の堤防修復の際に見つかった西嶋八兵衛の直筆とされる「大禹謨」の石碑=香川県栗林公園観光事務所提供
青春のほとんどである14年間を讃岐の地域開発に尽くした八兵衛は、役目を終えて伊勢に帰ります。そこでも八兵衛は、1642(寛永19)年の大干ばつ、1646(天保3)年の大凶作で苦しむ農民のため、雲出川で約13キロの用水を開削します。八兵衛は工事を陣頭指揮し、土地の高低差を調べるのに夜間松明を灯し、遠望して測量し、井水の側溝斜面には竹を植えて崩壊を防いだということです。
八兵衛が食事をする時間を惜しみ、いり豆を噛みながら仕事をする熱心さに人々は心を打たれました。技術だけでなく、人徳を併せ持つ土木技術者の生涯でした。=毎月第1木曜掲載