2022.12.01
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 連載38回 緒方英樹 酒匂川と二宮金次郎~そのあだ名は「土手ぼうず」~
二宮尊徳というビッグネームから誰もが想像するのは、柴を背に読書をしている二宮金次郎の姿ではないでしょうか。尊徳(たかのり)という名は晩年用いたもので、没後、農村復興の神様として尊徳(そんとく)と称されるようになりました。
水害で一家離散の苦労が実学の道につながる
二宮金次郎(尊徳)は1787(天明7)年、栢山村(かやまむら=現在の小田原市)に生まれました。徳川家斉が第11代将軍になり、天明の大飢饉などで一揆や打ちこわしが続発していた時代です。
金次郎が生まれ育った栢山村は酒匂川の下流域にありました。酒匂川は、富士山の東麓と丹沢山地の西南部を主な源流とし、静岡県を流れるときは鮎沢川、神奈川県を流れるときは酒匂川と呼ばれ、上流で大雨が降ると土砂混じりの濁流が下流域に甚大な災害をもたらしていました。
その金次郎が5歳のとき、酒匂川が洪水で氾濫、二宮家の田畑のほとんどが流失してしまいます。上流から運ばれた土砂が下流に堆積し、洪水が土手を壊したのです。
金次郎は、病気がちな父に代わって酒匂川の堤防修理に参加しました。幼い金次郎にできる労働は当然限られるため、作業する人たちの草鞋(わらじ)を夜なべしてつくります。
そして12歳になるころには、松苗を売る行商人から安価で残った苗を買い、堤防補強のために植えました。ひまがあると土手に来て蛇籠(石を詰める籠)を編んだり、川の流れや水勢の変化を観察していたりといつも堤防にいたものですから、「土手ぼうず」というあだ名がつけられたということです。
金次郎の子どものころにつけられたもう一つのニックネームは「キ印の金さん」。父に習った『論語』や『大学』という難しい四書を大声で朗読しながら歩いて行くものですから、栢山村では奇人で通っていたということです。百姓の子が学問をする意味など理解されない時代のことでした。読書好きの父が亡くなったのは、金次郎が14歳のときでした。
そして、16歳のときに母を失い、二人の弟の親代わりとなった金次郎は残されたわずかな田畑を耕しますが、酒匂川の氾濫により一夜で流されてしまいます。一家はついに崩壊離散してしまいます。一家を再興するには学問(実学)しかないと誓った金次郎。薪を背負ってでも時間を無駄にはできなかったのです。
一家再興の手腕を見込まれて農村再建の達人となる
少年時代から堤防工事を手伝い、酒匂川を観察してきた金次郎は、幸せを一瞬で呑み込む自然の無慈悲を身に刻んでいたことでしょう。そして、農業振興には土木事業が深く関係していると身をもって会得しました。古代より日本は、水稲耕作を農業の基本に置いたことによって、農業生産のために河川の氾濫などの災害を防ぎ、水を治めることが必須の条件だったのです。
柴を背負って論語を読み、洪水で田畑を奪われ、兄弟ばらばらで他家に預けられた少年は、たくましく、したたかに成長していきました。やがて金次郎は、水害に遭った砂利だらけの水害田を耕し、農地を持たない農民に貸して小作米を得ていきます。この収穫を売って得た金を人に貸して、金次郎は20歳で独立します。30歳になるころには二町歩の田畑を買い戻し、一家再興の悲願を果たしました。
金次郎の手腕を見込んで各方面から依頼が来ました。手腕とは仕法、すなわち経済の再建でした。金次郎の仕法は、収入以上に支出しないこと。収入の半分で生活して、残った分を明日のため、他人のために役立てることを基本に借金返済を計画しました。
金次郎による再建は関東周辺10か国以上、綿密な調査データに基づく経営管理で農村を復興させていったのです。米を基本とする封建社会では、生産力が落ちると年貢を取る側の武士も、取られる農民も経済弱者となります。こうした武士と農民の間に立って、どうすれば負の連鎖を断ち切れるか。その仕法を具体的に示した点に尊徳の偉大さがあるのだと振り返ります。
そして、最も注目すべきは、それぞれ土地の履歴を100年前まで遡って読み、農村復興のネックとなっている問題解決を行った点です。その解決手法が、河川の改修、堰の築造や改修、水路の掘削など土木の仕事であったのです。
※理工図書(https://www.rikohtosho.co.jp/)から、当連載にも関連した緒方英樹氏の新著『大地を拓く』が刊行されました。