ソーシャルアクションラボ

2023.03.02

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 連載第41回 緒方英樹 今いる場所で希望の灯をともす 医師・中村哲から思いを馳せる「土木のこころ」~行基・青山士・後藤新平・古賀百工~ 

福岡県朝倉市の山田堰で、視察団のメンバーと話す「ペシャワール会」現地代表の中村哲医師(左)=福岡県朝倉市で2019年(令和元年)9月10日、桑原省爾撮影

貧困の一因の水問題に30年超尽力

 アフガニスタンの砂漠に用水路を拓いて緑にかえた医者として知られる故・中村哲(なかむら・てつ)さんは、なぜ土木事業を行うようになったのでしょうか。

福岡県朝倉市の山田堰で、視察団のメンバーと話す「ペシャワール会」現地代表の中村哲医師(左)=福岡県朝倉市で2019年(令和元年)9月10日、桑原省爾撮影
福岡県朝倉市の山田堰で、視察団のメンバーと話す「ペシャワール会」現地代表の中村哲医師(左)=福岡県朝倉市で2019年(令和元年)9月10日、桑原省爾撮影

 中学生時代、クリスチャンとなった中村さんは「直接世のため人のために役立つ仕事をしたい」と医学への道に進みました。そして、民族、宗教、国境を超えた愛の実現は、医療から土木事業へと発展していきました。

 パキスタンのハンセン病治療や難民医療に携わっていた中村医師は、隣国アフガニスタンで30年以上にわたり貧者、弱者のために大地を拓き、農業支援を続けてこられました。当時も、ソ連の侵攻や内戦、戦乱が続くアフガニスタンは、地球温暖化による大干ばつ、終わりの見えない戦乱によってきわめて劣悪な生存環境が続いていました。空爆があっても干ばつは続き、食糧難と水不足は、弱い者から次々と命を奪っていたのです。

 医療協力だけの支援に限界を感じた中村さんは、根源にある水問題を解決しなければ、この惨状は変えられないと思い至りました。そして、中村さんは思いもかけない行動に出ます。自ら先頭に立つと、頻発する干ばつに対処するために1600 本の井戸を人力で掘り、クナール川から全長 25.5 キロの灌漑用水路を建設します。中村さんは独学で土木技術を学び「緑の大地計画」を展開。やがて、約1万6500ヘクタールが農地に変貌し、中村さん亡き後も現地のNGOとペシャワール会に引き継がれています。

行基の「利他のこころ」に通じる土木の原点

 中村さんの偉業を通して、3人の人物のことが脳裏に浮かびました。1人は古代の僧侶・行基(ぎょうき)です。行基は、安定した僧の位を捨てて寺を飛び出すと、天災や税の取り立てに苦しむ農民、貧民を救うために道や用水路、堤防や橋をつくっていきました。行基を救世主と慕う農民たちとともに、数多くの大規模な土木事業を行ったのは、他人のために心を込めて動く「利他行(りたぎょう)」という仏教思想があったのだと思われます。まさに、土木の原点が見てとれる気がします。

自分より他の人を助ける行い(利他行)で大阪の狭山池をはじめ、橋、道、池など約100か所の土木事業を行ったとされる行基=土木学会発行の「土木偉人かるた」より
自分より他の人を助ける行い(利他行)で大阪の狭山池をはじめ、橋、道、池など約100か所の土木事業を行ったとされる行基=土木学会発行の「土木偉人かるた」より

「生まれてきた時よりも、良い世の中にしたい」という志

 2人目は、世紀の大事業と言われたアメリカのパナマ運河工事に1903(明治36)年から参加した唯一の日本人土木技術者・青山士(あおやま・あきら)です。

  内村鑑三の影響もあって生涯無教会主義のクリスチャンであった青山は、帰国後、関東地方を流れる荒川の大洪水を東京湾に落とし込む荒川放水路の開削や、荒川と同様に暴れ川として知られた信濃川で大河津分水路の補修工事を指揮しました。この事業によって、荒川放水路は首都を洪水から守り、大河津分水路は水害に悩まされていた越後平野を穀倉地帯によみがえらせました。

 青山は「人類のために尽くす」ことが土木技術者の本懐であり使命、責任だということを体現して見せました。青山の人生のモットーは、“I wish to leave this world better than I was born.”(私がこの世を去るときには、生まれてきた時よりも良くして残したい)であったといいます。

青山士(前列左)のパナマ運河工事は測量のポール持ちから始まったが、2年後には最も難しい水門設計を任された=土木学会附属土木図書館提供
青山士(前列左)のパナマ運河工事は測量のポール持ちから始まったが、2年後には最も難しい水門設計を任された=土木学会附属土木図書館提供

後藤新平による「生を衛る」都市づくり

 3人目の人物は、医者でありながら日本や台湾のインフラづくりに貢献した後藤新平です。関東大震災直後、復興は単に一都市の問題ではなく、日本の発展や国民生活の根本問題であるとして、将来を見据えた東京の復興計画を立案しました。

 もともと医師でもある後藤新平による都市づくりは、人の生命と健康を公共の中心に据えたものでした。この時、後藤の視野には、個人を対象とした医学を超えて、社会全体の「衛生」、すなわち生を衛(まも)るインフラづくりに向けられていたのだと思われます。昭和天皇はのちに、「関東大震災で何か思い出は」という問いに「後藤新平の膨大な計画が実現できなかったことが残念」と答えられたという逸話もあります。

昭和天皇の災害地御巡視。関東大震災で被災した東京・上野公園で撮影=土木学会附属土木図書館提供
昭和天皇の災害地御巡視。関東大震災で被災した東京・上野公園で撮影=土木学会附属土木図書館提供

江戸時代の土木「山田堰」と古賀百工に学ぶ

 中村さんが用水路と取水堰建設でモデルとしたのが、中村さんの故郷福岡にある朝倉市の山田堰(やまだぜき)でした。中村さんが留意したのは、①なるべく単純な機器でできること、②多大なコストがかからない、③ある程度の知識で地域の誰でも施工できることでした。さて、江戸時代につくられた伝統工法とはどのようなものだったのでしょうか。

 

 1663(寛文3)年、4代将軍徳川家綱の時代、干ばつの飢饉で苦しむ農民たちを救うため、筑後川から水を引いて水田化するために堀川用水が開削されました。これが山田堰の原型です。その127年後の1790(寛政2)年、古賀百工(こが・ひゃっこう)により総石張りの山田堰が完成しました。水不足を補うだけでなく、暴れ川と名高い筑後川から住民と農地を守る治水の役割も担ってきました。

 中村さんが注目した日本で唯一の石張堰とは、川筋に対して水平に横切る堰とは異なり、右岸と左岸を斜めに横切るように築いた堰のことです。大小の石を水流に対して斜めに敷き詰めることで、筑後川の勢いを抑えました。

 工事を指揮した古賀百工は地元の庄屋ですが、子どもの時から同じく庄屋だった父親が堀川用水の工事をする姿を見て育ったそうです。「農業を発展させ、多くの人を幸せにする庄屋になる」。父の願いを引き継いだ百工の決意が山田堰を完成に導きました。

山田堰は江戸時代に築造された総石張りの取水堰。その形式は国内唯一の傾斜堰床式石張堰で、2012年度土木学会選奨土木遺産となった=選奨土木遺産委員会提供
山田堰は江戸時代に築造された総石張りの取水堰。その形式は国内唯一の傾斜堰床式石張堰で、2012年度土木学会選奨土木遺産となった=選奨土木遺産委員会提供

 現在も当時の形をとどめている山田堰は、大がかりな建設機械がなくても造ることができる江戸時代の卓越した土木技術として、さらには生態系への影響も少ない施設として世界から注目され始めています。

緒方英樹(おがた・ひでき) 理工図書取締役、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ、土木学会土木史広報小委員会委員長