2023.08.30
東日本大震災。正解のない中で迷い、考え続けた。子どもを守るために行動したこと
東日本大震災がおきた2011年3月11日、仙台市泉区のマンション8階に住んでいました。全壊でした。当時、長男は幼稚園の年中になる直前で、4歳。次男は2歳でした。
地震が起きた午後2時46分は、子どもの幼稚園のお迎えから帰ってきて、リビングに入った直後。だからコートも着ていて、バッグも、鍵も持っていたから、すぐ下に降りることができました。その間も余震はひっきりなしに起きました。
その日は向かいの消防署に避難しましたが、長くはいられず、次の日は1キロほど離れた小学校へ毛布や布団を持ち歩いて移動しました。
一日の配給は、4人家族でおにぎり一個。水1本。バナナ4本。
トイレは学校のプールのトイレのみを使い、30分以上並ぶ。
とにかく寒く、待っている間に体は冷え切り、寒さと余震、これからの不安で眠ることはできませんでした。
トイレの帰りに暗闇で転び、手首や肘を痛めましたが手当してもらうほどのケガでもなく――。ねんざとはいえ痛みは酷く、避難生活には支障をきたしました。 翌日も物資は届きません。電気も水もいつ復旧するのか、このままここにいれば衰弱していくだけかもしれない、と思いました。
2日目、3日目となるうちにじわじわと先の見えない恐怖が押し寄せてきます。
避難所でラジオを聞き、「福島原発が停電している」ことを知りました。万が一のことを考え、とにかく子どもを安全な場所に避難させたいと、実家の佐賀に避難することを考えはじめました。
(被ばくは)ただちに子どもの健康に影響が出るわけではありません。――結果は、人生を過ごしてからでないと、わかりません。でも、「過信できない」「子どもの命を守りたい」と思ったのです。
震災が起きる前に、鎌仲ひとみ監督の映画(六ケ所村ラプソディー)をたまたま見ていて、原発のことを少し知っていました。
長女を亡くしていることが大きく、子ども2人をなるべく安全な場所に避難させることを、一番大切にしたい――。議論の末、そこは、夫と意見が一致しました。
車のガソリンを満タンにしていたため、600キロ以上走行可能ということがわかってたのが救いでした。ラジオで山形空港が稼働していることがわかり、深夜に出発して4時ごろ空港につきました。
空港には、すでに空席待ちの人達がたくさん並んでいましたが、臨時便が出たおかげで羽田行きに乗れ、夜には佐賀に帰ることができました。飛行機に乗れた時は涙が止まりませんでした。
3月14日、佐賀の実家で暖かい食事を取り、お風呂に入ると、まだ今日も避難所で寝る知人家族や赤ちゃんたち、隣で寝ていた老夫婦の顔が浮かびました。「『自分たちが助かったから良かった』では済まされない。何かできることはないのか」。いてもたってもいられなくなりました。
佐賀市の焼却場の横にあるエコプラザ(リサイクルショップ)に、カーテンや着る物、食器などをもらいに行くと、そこでちょうど(運営する)「NPO法人くらし塾」の職員さんたちが、東日本大震災の支援をどうしたらいいか、話し合っていました。
そこへ、私が「被災者なんですけど、ものをいただいてもいいですか」と声かけました――。
「砂子さんを通じて、東北のことを伝えてもらって、砂子さんを通じて東北に支援をしよう」。
くらし塾の皆さんが不要品を売ってできた資金が私に託され、その資金を元に支援物資を被災地に送りました。
3月15日には、佐賀県庁にひとりで行きました。「私は、宮城で被災して佐賀に来ました。(東北にいる友人たちから)『子どもたちの野菜ジュースが欲しい。パンツがない』といったメールがたくさん届きました。こういう(必要な)物を集められたらいいと思います」と、ママたちが本当に必要なものを伝えに行ったんです。
そしたら、「決められた物しか受けつけられないし、呼びかけもできないんです」、と。
こんなふうに、乾電池、カセットコンロ、レインコート、水――。被災地で求められた物資は、正規のルートでは、なかなか人々の手に届かなかったのです。
「じゃあ、自分でやろう」となりました。
こうして、「iーくさのねプロジェクト」を立ち上げたのです。
県庁とのつながりから、新たな活動もはじまりました。佐賀の倉庫に集まりすぎてしまった(支援物資の)毛布や洋服、生理用品、日持ちのする保存食、マラソン大会の未使用Tシャツなんかもあったかな――。
県庁側は、送り先を把握していたものの、すべてを配りきれない。避難所も、必要以上に送られてきたら困ってしまう。避難所やボランティアセンターに電話をしてみると、「うちはいりません」と言われることもあれば、「とりあえず何でも送って下さい」と言われることもありました。
県庁の人に送料は出してもらい、ダンボールにつめて、福島の避難所へ、宮城の避難所へ、と送りました。
佐賀新聞には、「宮城で被災し、佐賀に避難してきた市民として活動を始めます。被災地に支援物資を送りたいので、支援金を募集しています」とメールしました。必死でした。本当に必要なものを被災地に送りたいけれど、自己資金で足りない。無謀で、微力でも、何かせずにはいられなかった。
そうしたら、メールを読んだ記者の方がとんできてくれて、すぐに記事にしてくれました。その記事を読んだ人や団体から、支援してもらえることになったのです。
佐賀は、ローカルコミュニティーが深いです。佐賀新聞を読んでいる人も多く、いろんなところから問い合わせが来ました。地元のつながり――ああ、●●さんの娘さんが呼びかけているのね、といった感じで。一気につながりました。郷土愛と、東北のことを支援したい思いが渦になった感じです。人と人のつながりがすごく深い、佐賀ならではの広がりでした。
「見える支援」――自分たちのお金が、どこで、どう使われているかを知りたい。メディアを通じてしか分からない被災地の、生の情報を知りたい――そういう声がすごくありました。
大きな団体を通じて義援金を寄付しても、そのお金が、何に、誰のために使われるのか具体的に分からず、砂子さんを通じて、「見える」支援をしたい方が多かった。
地元の同級生だけでなく、初めて会った人たちも、応援してくれました。ひとりの母親である私の被災体験を知りたい、という声もいただき、くらし塾で私が見たこと、感じたこと、を語り続けた日もありました。
その間、2週間に1回くらい仙台に帰っていました。
東京までは飛行機で、そこから深夜バスを使って行きました。仙台の自宅に帰ると、冷蔵庫の中は腐り、部屋の中もぐちゃぐちゃでした。自宅の片付けをしたり、ボランティアに行ったりしました。被災地で、ウェットティッシュは喜ばれました。歯ブラシは日ごろから、多めに買った方がいいですね。
佐賀から送られた物資を届けるため、仙台市泉区から石巻に行ってきました。(中略)海沿いを目指していきましたが、徐々に被害の様子が見えてきました。床下浸水から床上浸水とだんだん被害が酷くなっていき、道路脇に寄せられた瓦礫や泥の量が増えると共に信じられないような光景が見えてきました。車が横転したままであったり、すっかり縦になって庭先にあったり、家も傾いたり崩れたり、そしてあるはずのない大きな船が道路に横倒しになっていたり。声も出ませんでした。自宅に戻り、泉区の自宅周辺とのギャップがあり過ぎて、今日見てきた事は現実だったのか。と、なんとも言えない気持ちでボーっとしてしまいました。
(2012年9月、「iーくさのねプロジェクト」のHPより)
半年、佐賀で暮らしましたが、9月から仙台市に戻りました。
私は佐賀で頑張って暮らしている。夫も仕事がある仙台でひとりで暮らしている。こんな状況で、けんかも増えて、お互いが大変で、「半年で限界」と思いました。これ以上離れて暮らせないなと。家族が離れて暮らすと意思疎通が難しくなり、電話口での口論が絶えず、不機嫌な状況が続くようになりました。
原発事故の放射能汚染に関しては、心配も多くありました。自分なりの対策としては、住宅の周囲や生活圏を測定すること。幼稚園でも測定を行っていました。
食べ物は、産地を避けることで漠然と判断せず、宮城県の生協「アイコープみやぎ」が自主基準で測定を行って供給をしていたので、そちらの食材を利用していました。
安全なのか、安全でないのか。たくさんの情報と意見が飛び交う中、安心して日々を送るためにはどのような選択をしていけば良いのか、明確な正解のない中迷い、悩み、考え続けながら生活を送っていました。(続きます)
佐賀と仙台の気温差が激しく、風邪を引いたり、久しぶりの幼稚園のお弁当作りで苦手な早起きの克服をはかっています。8時近くまで明るかった佐賀に比べて宮城の日の入りはとても早く、5時過ぎになるともう薄暗くなって 秋深い空気が漂います。こちらでの生活のリズムを早くつかんで、活動の報告をしていきたいです。今頃ですが、仙台へ帰ってから、「被災地」や「支援」という言葉を使用したくなくなりました。
どこも大事な 普通の 土地です。
(2012年9月、「iーくさのねプロジェクト」のHPより)
【語り手】砂子啓子。宮城県仙台市で始まった子育て中心の暮らしを、転居した東京で再構築し、5年目に入ります。東日本大震災当時、息子たちは2歳と4歳でした。育児、家事、防災、仕事、地域活動。興味関心事をミックスし、複合的視野を持って生活中です。佐賀県出身。2011年3月、被災地と支援者を結ぶ任意団体「i-くさのねプロジェクト」を立ち上げました。2018年、防災士の資格を取得。特技は、子どものころに始めた剣道で、地域の子どもたちにも教えています。