2023.07.07
間に合わなかった大津波警報 北海道南西沖地震30年、今も心に重荷
奥尻島を中心に230人が犠牲になった北海道南西沖地震から12日で30年。「あの日」は島民らの生き方を変えた。大津波警報を発令した一人だった気象台職員の「その後」をリポートする。【真貝恒平】
前日まで滞在の地、当日は警報を発令
どうしても奥尻島(北海道)に行けなかった――。札幌管区気象台職員の吉川章文(あきふみ)さん(59)は1993年7月12日に北海道南西沖地震が発生した直後、気象台から大津波警報を発令した一人だった。その前日まで島に滞在。津波に襲われ、炎に包まれる島の映像を前に「あの美しい島が……」と絶句した。あれから30年。悲劇が心に重くのしかかり、島を再訪することはできずにいるが、防災の大切さを伝え続けてきた。来春に定年を迎える。
93年7月12日午後10時17分、地震計の針が一斉に揺れ出した。その時、まだ札幌市内は揺れていなかったが、気象台に道内で起こる全ての地震のデータが瞬時に送られてきた。やがて、ブザーがけたたましく鳴り響いた。夜勤だった職員2人がブザーを止め、地震計に駆け寄った瞬間、揺れ始めた。震度3。職員はすぐに非常ベルを鳴らした。
吉川さんは当時29歳。気象台近くの宿舎で暮らしていた。「この揺れはいつもと違う」。すぐに気象台に向かった。吉川さんが到着する間、庁舎に次々と職員が駆けつけていた。震源は北海道南西沖、マグニチュード7・8、震源の深さは35キロ。参集した15人ほどの職員の間に凍り付くような緊張が走った。地震の発生から5分経過した午後10時22分、奥尻町に大津波警報が発令された。
午後10時33分、奥尻町内に役場からの防災無線が流れた。「ただいま、大津波警報が発令されました。安全な場所に避難してください」。しかし、そのとき、すでに町は津波にのみ込まれ、炎に包まれていた。地震発生から警報発令までの5分は当時としては最速だった。しかし、震源があまりにも近かったため、警報は間に合わなかった。
旅先の風景一変
吉川さんはその前日まで奥尻島にいた。休暇を利用して、妻と友人の家族で2泊3日の旅行を楽しんだ。甚大な被害が出た青苗地区の民宿に泊まり、レンタカーで島を周遊した。地震が起きたのは、島から札幌市に帰った翌日の夜だった。つい数日前の島の景色と、目に飛び込んでくる島の悲劇を重ねることは到底できなかった。「うそだろ、うそであってくれ」。何度も心の中でつぶやいた。民宿を経営する家族も津波の犠牲になった。
地震の翌日、吉川さんは津波の痕跡調査のため、せたな町に向かった。当然、島に渡ることはできなかった。1週間後、今度は奥尻町での調査メンバーに入ったが、どうしても島に行く気になれなかった。「別の人間を行かせてください」。吉川さんは上司に頼んだ。心のバランスが崩れていた。「それから島に行っていない」と記者に明かした後、すぐに吉川さんは言い直した。「いや、行けなかったんです」
いつかもう一度
「もし帰るのを一日遅らせていたら……」「自分があのとき、島にいたら逃げることができただろうか……」。自問自答を繰り返し、今も答えは見つからないまま。だが、自分にできることは、「あの地震の教訓を多くの人に伝えることだ」と言い聞かせてきた。この30年、道内各地の気象台に勤務し、現在は火山防災情報調整官。「津波警報を見聞きしなくてもできるだけ高いところに逃げてほしい。警報が間に合わないこともある。ここまでなら大丈夫ということはない」と強調する。
吉川さんは来春に定年を迎える。定年退職後もいまと別の形で気象台の仕事に関わる予定だ。「まずは今の仕事を全うして、いつかもう一度、奥尻島を訪ねたい。そして、あの民宿があった場所で手を合わせたい」と語り、「あのとき、私たちをもてなしてくれた家族に『ありがとう、忘れません』と言葉をかけたいですね」と少しだけ笑みを浮かべた。
津波予報、時短可能に
北海道南西沖地震は発生後約5分で札幌管区気象台が大津波警報を発表した。しかし、すでに発生3分後に奥尻島に津波が来襲。島民は198人が犠牲になった。その反省から、気象庁は津波予報発表時間の短縮を目指した。
地震観測網の整備や地震データ処理システムの強化に取り組み、全国約180カ所に60~70キロ間隔で新たな地震観測点を配置。1994年から、沿岸に近い場所で発生した地震については、地震発生後約3分で津波予報の発表が可能となった。さらに、99年に津波警報の高精度化や津波予報区の細分化を目指し、津波シミュレーション技術による量的津波警報システムを導入した。
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