2023.11.06
水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 「奇跡の一本松」でたどる復興偉人たちの願いと継承~菅野杢之助、松坂新右衛門~連載50回 緒方英樹
壊滅的な被害を受けた国指定の名勝「高田松原」
2011年、東日本大震災で発生した津波で、約7万本もの松がなぎ倒され、背後に控えていた防潮堤さえも押し流される中、津波に耐えて唯一残った松は「奇跡の一本松」と呼ばれ、復興のシンボルとなりました。その後枯死しましたが、全国からの寄付で保存整備を行い、今はモニュメントとして復興が進むまちを見守っています。
その地は草木もなく、防風、高潮との闘いだった!
岩手県陸前高田市の南東部の広田湾にのぞむ高田松原は、全長2キロ近くにわたり白砂青松の景勝地で、陸中海岸の海水浴場としても知られる日本百景の一つでした。
しかし、そうした景色は、先人たちの幾度もの挑戦と労苦による賜物だったことを知る人は少ないかもしれません。
その昔、立神浜(たつがみはま)と呼ばれたその地域は潮風が絶えず砂塵が吹き上げ、後背地の耕地は埋没荒廃して、作物が収穫皆無の年もしばしばありました。海に面して地盤が低い地であったため、何度か防風、防波の対策が試みられましたが、自然の前になすすべもなく時は過ぎていきました。
そして、江戸時代の寛文7(1667)年、菅野杢之助(かんの・もくのすけ)という高田村の豪商が砂浜の背後農地の防風・防潮のため、仙台藩に松の植樹を願い出で植栽が始まりました。
仙台藩から正式に杢之助に防海林として松の造林が命じられると、杢之助は山野に自生する松の苗木を900本ほど自分で準備して、村方衆が集めた分を合わせて6200本の植え付けに着手しました。
ところが、海に面した砂地には2,000本ほどしか根づきません。そこで杢之助は、翌年から7年間かけて延べ672人の人出を集めて念入りな作業を繰り返します。災害に強いクロマツを中心に植栽を行い松苗1万8千本の植え付けに成功したと言われています。そして、杢之助はこの大事業を半ばにして亡くなりましたが、その偉業を子々孫々が受け継いで補植と管理を続けて松林の保護育成に努めたということです。
子孫は、3代にわたって手入れや補植を続けました。
その後、高田松原の西側にある気仙川沿いでは、気仙川河口の沼地を農地にしようと、開拓事業に取りかかっていた今泉村の松坂新右衛門(まつざか・しんうえもん)が、菅野杢之助の偉業に習って、植林事業に取り組みます。新右衛門は、享保年間(1716~36)、杢之助と同様に自ら身を投じて植林、補植を続け、長い年月をかけて松を増やしていきました。
まさに、復興偉人と言える人たちです。
こうした先人たちの長い歳月を費やした労苦によって生まれ変わった松原は、それからも幾度となく津波の被害を受けては壊滅の危機に陥りましたが、そのたびに先人の志を継いで松が植えられてきました。
そして残った「奇跡の一本松」に希望を託して、高田松原は再びの景色を取り戻していきます。