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2024.03.15

水を治める 先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ  古都をよみがえらせた水の路づくり ~田辺朔郎と琵琶湖疏水ものがたり 連載54回 緒方英樹

琵琶湖の水を引く大プロジェクトは、歴史的悲願だった!

 京都市左京区の南禅寺境内にある水路閣。アーチ型の橋脚を見ながら南禅寺、哲学の道を散策するというおなじみのコースですが、歩く道すがら、この水路閣から明治の大プロジェクトに思いをはせる人はいかばかりでしょうか。

南禅寺境内にある琵琶湖疏水の水路橋。全長93.2メートル、高さ約9メートル。レンガ、花崗岩造りのアーチ型の橋脚が境内の景観に配慮してデザインされている

 疏水(そすい)とは、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させることをいいいますが、琵琶湖疏水は、1883(明治16)年から約5年の歳月をかけ、琵琶湖の水を京都まで引いてつくられた多目的利用の運河です。その詳細は、京都の市営地下鉄に乗って蹴上(けあげ)駅で降りると、歩いて五分ほどで着く琵琶湖疏水記念館の展示からも読みとれます。

 この琵琶湖の水を京都に引くという壮大な計画は歴史的に浮上しては消えた幻の夢でした。かつて、敦賀湾~琵琶湖~京都を運河で結ぶ構想は、平清盛や豊臣秀吉も夢想し、江戸の実業家である角倉了以・角倉素庵父子も企みましたが、技術的に実現しませんでした。

明治維新の光と影。左手で書いた卒業論文

 文明開化に沸く東京の一方で、千年の都は座を失って疲弊していました。当時の京都府知事・北垣国道が京都復興に向けて決断した起死回生の切り札こそ、琵琶湖疏水事業でした。

 そして、そんな難関に挑戦するために選ばれたのが、弱冠22歳の工部大学校(今の東京大学工学部)学生、田辺朔郎(たなべ・さくろう)でした。江戸に生まれてすぐ父を失った旧幕臣の子は苦学していました。負傷した右手指を治療する費用も時間も惜しみ、左手で書いた英文の卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」が認められての大抜擢でした。能ある鷹の爪を見抜いて夢を託した北垣知事もまた見事でした。

 田辺は、工部大学校5年の時、工作局から辞令を受けて京都へ出張。その実地研究(卒業研究)で琵琶湖疏水の路線を2カ月ほど丹念に調査、検討していました。その頃、北垣は、疏水の重要性を農商務省少輔品川弥二郎、参議井上馨、大蔵卿松方正義、内務卿山田顕義らに説明しています。そして、北垣が相談したのが工部大学校の大鳥圭介校長で、大島は卒業論文執筆中の田辺を推薦したという経緯がありました。卒業した田辺は、京都府御用掛として奉職します。ここから、大いなる土木の挑戦が始まったのです。

舟が山にのぼる?蹴上インクライン

 しかし、当時、琵琶湖疏水事業に対して、多くの人が懐疑的あるいは批判的でした。

 オランダ人技術者デ・レイケさえも「工事の実現は困難」と指摘したほどです。「鴨川に湖水が流れ込めば、京都美人が汚れてしまう」という讒言(ざんげん)も流れました。いきなり工事主任に登用された田辺朔郎の若さにも批判の声が上がります。

 琵琶湖疏水工事の計画は、大津から長良山の下を約2500メートルくぐり、山科盆地、京都蹴上を経て賀茂川に至る水路を開削するという途方もないものでした。当時、琵琶湖疏水事業に対して、内務卿山県有朋は技術的、費用的に懐疑的あるいは批判的でした。工事費が国家予算の1.8倍に相当すると聞いた京都、滋賀、大阪の市民からも建設反対の声が上がりました。それでも北垣知事は「一切の懸念はない」と押し通します。そして、京都の再生は、市民の手で取り戻そうと主張。住民との対話を何度も重ね、田辺も会合に参加しました。

 田辺は、毎晩仕事が終わった後、機械の使い方や新しい技術を丁寧に教え、翌日、実践しました。やがて、若い田辺を「青二才」と揶揄(やゆ)する者はいなくなったということです。

 蹴上と南禅寺の間は勾配が急で、レールの上の台車に舟を乗せて上り下りさせました。これがインクラインです。ロープで昇っていく三十石船を見て人々は「舟が山に登る!」と目をむいたそうです。

蹴上インクラインは、疏水上流の蹴上船溜と下流の南禅寺船溜を結んだ全長約582メートルの傾斜鉄道で、建設当時世界最長。現在は、レールが保存されている

 なぜ、琵琶湖疏水が京都をよみがえらせるのか。その眼目は、飲み水の確保、水力発電による産業振興、物流の動脈、水路の確保にあり、前人未踏の大工事でした。

 1882(明治15)年、世界初の水力発電がアメリカのアスペン水力発電所で始まっていました。田辺は、工事最中の1888(明治21)年、京都商工会議所初代会長の高木文平(後に京都電気鉄道初代社長)と渡米します。マサチューセッツ州ホリヨークやアスペンを視察して、田辺は水力発電の有効性を確信します。当初より計画していたのは水車動力でしたが、田辺は、勇気をもってその計画を取りやめ、水力発電所建設を決断します。こうした経緯で建設されたのが蹴上発電所でした。

奇跡を起こした土木の金字塔

 1890(明治23)年4月、4年8カ月に及んだ琵琶湖疏水の大事業は竣工します。第一疏水、鴨川運河と共に行われた発電工事によって、翌年から送電が開始されました。この電力で京都の街に電灯がともり、路面電車が走り始めました。まさに、土木が奇跡を起こした瞬間でした。

 当時のこの瞬間を、福沢諭吉は「一身にして二生」を得たとまで言っています。明治は、蒸気の時代から、電気の時代に入ったのです。日本という小国が最新・最大の水力発電施設をつくったと欧米も驚きました。琵琶湖疏水事業は、土木の金字塔となったのです。

23歳にして琵琶湖疏水工事の総責任者に抜擢され、さまざまな難問題をクリアし、世紀の難工事を見事にやりとげた田辺朔郎。東京大学教授、京都大学教授、土木学会会長などを務めた

緒方英樹(おがた・ひでき)土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ 土木史委員会副委員長。著書「大地を拓く」(理工図書)で2022年度土木学会出版文化賞を受賞