ソーシャルアクションラボ

2018.08.23

「自分を傷つける人を、許さなくてもいい」 作家・辻村深月さん

 「あーあ、ぼっちの人ってかっわいそー」。中学1年になったばかりの女子生徒“こころ”はクラスメートからの理不尽な嫌がらせで、学校に行けなくなった。作家、辻村深月さん(38)の「かがみの孤城」(ポプラ社)は、家の外に出ることのできなくなったこころが、鏡の向こうの別世界「孤城」で6人の仲間と知り合い、力強く成長していく物語だ。10代から70代まで幅広い読者の心をつかんだ同書は2018年の本屋大賞を受賞した。辻村さんにいじめに翻弄(ほんろう)される子供たちの心模様について聞いた。【聞き手・岡礼子】

  • 「いじめに遭っている弱い子」と思われるのは屈辱的
  • 本当にいじめてない? 自分を正当化してない?
  • 自分の心の中は、誰にも侵すことはできない

つじむら・みづき 1980年、山梨県生まれ。千葉大教育学部卒。2004年「冷たい校舎の時は止まる」で作家デビュー。12年「鍵のない夢を見る」で直木賞を受賞。

◇いじめは誰にでも起きること。経験していない人なんていない。

 いじめとは言えないくらいのちょっとした「無視」や「仲間外れ」はどこの学校にもあるし、大人の世界にだってあります。私自身は長期の不登校の経験はありませんが、学校に行きたくないと思ったことは何度もあります。特に、女の子って3人グループになると、2人と1人に分かれてしまうことが多いですよね。仲良しの子との組み合わせが順番で変わって、1人でお弁当を食べるようなことが私にもよくありました。

 ただ、それは、メディアで報道されたりするような「いじめ」とは違うという認識でいました。大人にいちいち問題視されるまでもなく、私たちの周りにありふれた出来事で、ある種当たり前のような感覚。ただその期間を耐えしのげばどうにかなるのだから、大人にはむしろ介入してほしくないような意識があったような気がします。

 ◇ニュースで言っていたのと違うから「いじめ」ではない

 今回の「かがみの孤城」もそうですが、小説を書く時には、なるべく「いじめ」とか「スクールカースト」といった言葉は使わないようにしています。名前をつけてしまうことで、やった側は、メディアが報道する「いじめ」と違って「なぐって」いないから、「集団」ではないから、と今自分がしていることを「いじめ」ではないと考える。された方も、「いじめ」と言われた瞬間に、自分が急に「弱い」と言われてしまったような気持ちになったり、自分の痛みや、そこに至るまでの経緯が「いじめ」という言葉ひとつで片付けられてしまう悔しさを感じるものだと思います。だからすべての「いじめ」の当事者は、ただ中にいる間は自分を「当事者」だと思っていないし、思えない。

 人によって、起きたことも、負った傷もそれぞれ違います。説明しようと思ったら、「かがみの孤城」で書いたように長い枚数が必要。私のような小説家がしなくてはいけないのは、容易な名づけではなくて、それがどういうことなのか、主人公の心の動きをきちんと描いて、物語として届けることです。「いじめ」という言葉では認められないことが、本を読んだ後に「こころにあったようなこと」「『かがみの孤城』に出てきたようなこと」、と言ってもらえるようになったら、それが当事者の心に届いたということなのだと思って書きました。

◇大人に相談しても解決しない

 いじめを大人に相談しても解決しないことはみんな分かっていると思います。もっとひどいことになるかもしれない。みんなは耐えているのに、どうしてあいつだけ大人に相談したんだ、とか、〝大人に頼るなんて「わかってないヤツだ」〟という空気にもなってしまう。

 いじめの多くの発端が、誰かを傷つけたいという気持ちからではなく、実は正義感のような気持ちから起こっていると感じることがあります。「正義」の基準は人それぞれですが、集団の中でいったん自分たちが正しいと思ってしまうと、「間違っているあの子に分からせなきゃ」となってしまう。

ドアを叩く音が止まない。外の女子たちはみんな興奮していて、口々に「ほらー、出てこい」「卑怯」という単語が繰り返された。(中略)許せない、と誰かが言った。真田さんの声なのかどうか、こころはもう、聞き取れなくなっていた。許さなくていい、とこころは思った。私も、あなたたちを絶対に、許さないから。

「かがみの孤城」の一場面。「許せない」と家を取り囲んだクラスメートたちはむしろ自分たちの方がこころに「何かをされた」と思っている。こころが学校に行けなくなった決定的な出来事だ。

 女子たちがこころの家に来たのは、純粋な正義感と、その「正義」を誰かに向かってぶつけることができる楽しさがない交ぜになった状態。集団の中に強い影響力を持つ子がいると、その子に合わせなければいけないという「圧力」がかかる。自分の考えを言えないまま、いじめに加担してしまうこともあるでしょうし、この状態に異議を唱えることで自分が次の標的になってしまうこともありうる。

 いじめられている側も、悪く言われるような何かを自分がしたのではないかと感じて、自分を追いつめてしまうのではないでしょうか。

◇誰もが自分の「正しさ」を生きている

 こころが学校に行けなくなったきっかけを作ったクラスメートの女子については、小説では背景を描いていません。でも、彼女らも自分自身の「正しさ」を生きています。悪人になりたくて悪人になる人はまずいないはずで、それが、こころにとってはどれだけ間違ったことだとしても、彼女たちは自分たちが正しいと信じている。

 明確な悪人や善人がいるわけではなくて、それぞれの人の中に「正しさ」に裏打ちされた行動原理があるはずだと思い、それを追いかけて書きました。だから、この人はいい人であの人は悪い人という描き方はしないように心がけました。

 こころには無神経に思える先生が、実はクラスメートの女子たちにとっては「いい先生」かもしれないし、孤城で出会えた仲間たちも出会い方が違ったら衝突していたかもしれない。なるべくすべての登場人物を「誰が正解」ということなく、フェアに描きたいと思ったんです。

◇世の中にはわかり合えない人もいる

 学校では「誰とでも仲良くしなさい」「友達のことを悪く言うのはいけない」と教わります。それが「正しいこと」と思い込むと、仲良くできないのは、自分が悪いからとなってしまう。

 だけど、大人になった今、「嫌いな人がいてもいいし、自分を傷つける人を許さなくてもいい」ということがようやくわかってきた。「かがみの孤城」を書く前に話を聞いたスクールカウンセラーの方から、「今の子は、嫌いな人を許せない気持ちを悪いことのように感じたり、許せない原因を自分の中に探したりしてしまう」と教えてくれました。「自分は悪くないと思うところから、前を向けたり、奮い立つものもあるはずなのに」とも。

 「誰とでも話せばわかり合える」「嫌なことをする人も許さなければならない」という考えに苦しんでいるのは大人も同じかもしれません。だからそのあたりのことも、今回の小説ではちゃんと書いておきたかった。

◇他者との会話が「冒険」になる

 自分を傷つけたクラスメートに対して、こころは「この子が消えてしまえばいい」と願いますが、彼女が消えたとしても、別の誰かがおそらく現れます。教室からこころが消えても、その子たちは別の「正義感」からまた他の誰かにそれをぶつける。悲しいし、悔しいけれど、いじめは絶対になくならない。

その中で、では、何を頼りにしたらいいのかと考えた時に、その状況を自分が生き抜く力をどのように身につけていくかが大切です。

 中学生くらいの子にとって、他者と会話をすることは、それ自体が冒険です。まして一度うまくいかなかった経験があれば怖くなって当然。小説の中で、こころは最初、「孤城」に集まった仲間に対して「話したくないことは話さなくてもいいんだ」と思えたことで、気楽になります。その後、関係はだんだんと変化して、崩れそうになったり、深まったりする。こころはそうして成長していきます。

 学校を休んだことで、通っていたらできたかもしれない友達や、していたはずの経験をこころは奪われてしまった。孤城の中でそれを取り戻してほしかったんです。

◇「いじめていたんじゃない。あの子は嫌われていたの」

 「あなた、自分がやってたことの自覚があるの?」「たとえば、あなたは当時から私をバカにしていたわよね。あなたによく物真似されたこと、私、覚えているわよ」「そこまで強く相手を嫌って、バカにできる労力はどこから来るの?」

 辻村さんの「『いじめ』をめぐる物語 早穂とゆかり」(朝日新聞出版)という短編では、いじめる側の無自覚さも描いている。

 塾経営者のゆかりとタウン情報誌記者の早穂が、小学校時代を振り返る。早穂がクラスの人気者だったのに対し、ゆかりは、みんなの関心を引くために霊感があるとうそをつく「イタい子」だった。大人になった2人が再会した今、ゆかりは早穂に聞きたいことがあると言い……。

 2人はそれぞれ思い出が結晶化して、どれだけ話しても会話がかみ合わない。早穂にとっては「あの子は『イタい子』だから、いじめていたのではなく、みんなに嫌われていただけだ」という認識です。大人になるまでずっとそう考えて、自分の行為は「いじめではない」と思ってきた。

 だけど、そう思われてきたゆかりの認識が果たしてどうだったのかを皆さんに読んでもらいたいと考えました。読み終えた後、最初に見えていた景色がきっと違った光景に見えてくると思うんです。

◇好きなものにしがみついて

 振り返ってみると私はずっと、学校がどこか自分のものではないように感じていました。私よりずっと楽しく学校で過ごしてきた子たちは別にいたはずで、その子たちこそが学校の主役のように思えていた。だけど、楽しいだけではなかったからこそ、教室という場所に何か大きな忘れ物をしているような気持ちがまだ続いている気がするんです。当時はまだ言葉にできなかった不自由さや、うまくやれなかったことについて、大人になった今なら、あれがどういうことだったのか説明できるし、小説の中で考えることもできる。だから、10代を主人公に小説を書くのかもしれません。

 目の前の現実だけを自分の居場所だと思わないでほしい。身近に理解してくれる大人がいなくても、どこかには必ずいると信じてほしいんです。

 中学時代、追い詰められた気持ちだった時、私の部屋の鏡は光りませんでしたが、その代わりにいつも近くに本の世界がありました。本の向こうに、確かに信じられる大人の作者の存在や、その人のものを好きな、まだ出会っていない仲間の存在をしっかりと感じられた。本が、中学・高校生時代の私を生かしてくれたのです。学校で息ができなくなった時、しがみつける何かを持っていると強い。自分の心の中だけは、誰にも侵すことはできないんです。スポーツでも、アイドルでも、本でも、漫画でも、アニメでも。なんでもいいから、しがみつける何かを心にしっかり、持ってください。

記者が厳選 「いじめを哲学するアーカイブ」

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